<strong>キリンビール社長 松沢幸一</strong>●1948年、群馬県生まれ。北海道大学農学部修士課程修了後、キリンビール入社。キリンヨーロッパ社社長、常務執行役員生産本部生産統轄部長などを経て、2009年3月より現職。かつて所属したサッカーチームではフォワードで活躍した。就寝前によく読むのは歴史小説。
キリンビール社長 松沢幸一●1948年、群馬県生まれ。北海道大学農学部修士課程修了後、キリンビール入社。キリンヨーロッパ社社長、常務執行役員生産本部生産統轄部長などを経て、2009年3月より現職。かつて所属したサッカーチームではフォワードで活躍した。就寝前によく読むのは歴史小説。

「コンパクト・ラインをつくれ」、と社内ではいつも言っている。

サッカーに例えて、フォワードは営業、バックスが生産と考えると、営業と生産の距離がコンパクトであればあるほど、商品が消費者に届くゴールまでの時間を確実に短縮できる。厳しい商戦を制する最大の条件は、この時間との戦いに勝つことにほかならない。いま求められるのは、他社に先んじて市場ニーズに応えていくことにある。

生産と営業の間には物流があり、このほか調達、商品開発もある。サプライチェーン全体でコンパクトなラインをつくっていく。市場の情報を察知して、コンパクトなフォーメーションのなかで素早くボールを回し、ラインを押し上げていくわけだ。

とはいえ、予想を超える事態は必ず発生する。2009年4月8日に発売したアルコール0.00%の「キリン フリー」は、発売するやいなや爆発的に売れ、欠品を起こしてしまった。本来、メーカーとしてはあってはならないことだった。

社長に就いたばかりの私の初仕事は、客先での謝罪となった。「キリンの判断ミスです。申し訳ありません」と。手痛い失点となるが、このときも要求されたのは時間の短縮だった。リカバリーできるかどうかはバックスである生産がいかに早く増産して、前線のフォワードにつないでいけるかにかかっていた。

コンパクト・ラインの下、営業からのお客様の動向情報と市場リサーチ室の分析結果に鑑み、生産体制を拡充して販売を伸ばした。品薄となっているだけに、バックスはひたすら頑張るしかなかった。

キリン フリーの年内販売目標は、当初63万箱(1箱は大瓶20本)。これを5月には160万箱に上方修正した。1カ月間で2.5倍の生産体制をつくるが、それでも足りなかった。7月末には250万箱、そして10月6日には350万箱と、上方修正を重ねていく。10月末までに、修正目標の約9割が売れ、新しい価値の市場を創出できている。

もっとも、単純にコンパクトなラインをつくっただけで成果を得られるわけではない。フォーメーションが正しくても、それをうまく機能させるのは選手の意志とコミュニケーションだ。実際01年にアサヒビールに逆転された後も、「フォワードがシュートを打たない」「バックスの上がりが悪い」と部門間で批判し合っていた。選手だけではなく、幹部までもがである。

生産部門の責任者だった私は、03年春から「チームキリン」としてやるんだと部門内で主張し、営業がもたもたしているなら生産のほうでラインを押し上げていったらどうだと発破をかけた。実際に、チームキリンとしてコンパクト・ラインが初めて発揮されたのは、05年春。キリンにとって初の新ジャンル(第3のビール)商品となる「のどごし」の投入時だった。04年12月には発売日が4月20日と決まり、流通との商談が始まる。当然、情報はライバル社にも流れた。

我々生産部隊は年末年始の休み返上で、試験を繰り返した。商品スペックは出来上がっていたが、量産しても高品位な味を維持することが不可欠だったのだ。

当時の営業本部長だった加藤さん(壹康・現キリンホールディングス社長)は、「桜の咲く頃に、出したい」とおっしゃっていた。しかし、良いものをつくらなければ早く出しても無駄だとわかっていたので、私は発売日を変えなかった。

暗中模索は続いたが、バックスは必死で高品質を実現させ、同時に販売目標より受注が5割増しであっても欠品を生じさせない態勢を1月中に築いていく。

この時点で私は、営業部隊にあるサインを送った。「発売日を2週間前倒しして、桜に間に合わせられる」と。夜の8時だった。内心ではどうせやらないだろうと思っていた。何しろ、営業も広告も、4月20日発売の予定で12月から動いていたのだから。発売前倒しは負担が大きく、何よりもキリンは一度決めたことを軽々とは変えない体質だった。ところがどうだろう、翌朝一番で前倒しに応じると営業から返答が来たのだ。

※すべて雑誌掲載当時

(永井 隆=構成 芳地博之=撮影)