『グリム童話』は小説の素材の豊庫

「直木賞作家ともなれば、独立してやっていけるでしょう」という人もいたが、そうした気に私はならなかった。

新製品や新規事業の情報などを入手して、それを世の中に発信する時代の最先端をいく職場に身を置くことで、大きな刺激を受けていたからだ。また、小説を書くことで気分転換になり、仕事にもプラスに作用した。ビジネスマンを続けながら作家活動をすることは、私にとってまさに一石二鳥だった。

しかし、公私の区別はきちんとつけた。原稿を書くのは退社後と土日の休日のみ。職場で原稿を書くことは一度たりともなかった。職場では仕事に全力投球した。この点はビジネスマンと作家の生活を両立させるキーポイントだ。

ビジネスマン出身の代表的な作家
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ビジネスマン出身の代表的な作家

作家として大切なことは、世の中の動きに対する好奇心を持ち続けることである。「なぜ、何人もの中年男性が美人とはいえない女性に騙され、簡単に殺されてしまうのか」。事実は小説より奇なりとよくいうが、世の中の動きに敏感になっていれば、小説のネタに事欠くことはない。また、自分の仕事を通して専門的な領域を深めていけば、ほかの人には書けない独自の題材を見つけられる。

子供の頃の読書の経験の影響も大きい。自然と頭の中に入った文体、語らい、思想は小説を書くうえでの重要な資質になる。私の場合、特に『グリム童話』をよく読んだ。民話を集めたものだが、正しい心、邪よこしまな心など小説の素になる人間の原始的な欲望が詰まっている。またストーリー展開の参考にもなり、大人になってからも読み返した。

定年後に何の目標も持てずに無為に時間を過ごしている元ビジネスマンが多いという。もし「小説を書いてみたい」という気があるのなら、できるだけ早い時期から挑戦してほしい。

(伊藤博之=構成 南雲一男=撮影)