安倍長期政権のもとで自民党には何が起きていたのか。朝日新聞取材班は「かつての自民党には執行部批判を繰り広げる一言居士がそろっていた。だが今は『沈黙する自民党』になっている」という――。

※本稿は、朝日新聞取材班『自壊する官邸』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

自民党の二階俊博幹事長との面会のため同本部に入る石破茂元幹事長=2021年9月14日、東京・永田町
写真=時事通信フォト
自民党の二階俊博幹事長との面会のため同本部に入る石破茂元幹事長=2021年9月14日、東京・永田町

「石破アレルギー」を味方につけた第2次安倍政権

「安倍1強」はいかに生まれたか。

最大のライバルだった元幹事長・石破茂との関係を軸に振り返る。

2012年末に生まれた第2次安倍政権の誕生には、民主党政権の低迷だけでなく、自民党内にあった「石破アレルギー」が一役買った。

自民党の次期衆院選での政権復帰が確実視される中で行われた同年9月の党総裁選。石破は1回目の投票で、地方票の過半数を奪って安倍らを圧倒したが、国会議員票が伸びず、田中角栄が福田赳夫を破った1972年総裁選以来の決選投票となる。

石破は自民党が下野し、細川(護熙)連立政権だった1993年12月に離党したこともあり、当時自民党幹事長だった元首相・森喜朗ら党重鎮の間では「苦しい時に、石破から後ろ脚で砂をかけられた」との思いから「石破嫌い」が根強かった。安倍は、「石破政権」の誕生を嫌う国会議員たちの票を集めて決選投票で逆転し、病気で首相を退いた07年9月以来の総裁に返り咲いた。

衆院選を控えた安倍は不本意ながらも、石破を幹事長に据え、「二枚看板」態勢を敷いた。必ずしも気が合わない石破を、党員人気を考えて「選挙の顔」として使わざるを得なかった。

安倍、石破のトップ2が載ったポスターで戦った自民党は12年末に政権を奪還した。総裁選で安倍を推した菅義偉、麻生太郎、高村正彦らで政権中枢を固める一方、石破を幹事長に留任させた。そして13年夏の参院選で安倍自民党は大勝。衆参のねじれを解消させた。

「俺が安倍さんに反対したら、支持率は一気に下がる」

幹事長として参院選勝利に導いた石破は、この時も留任する。この間、石破は安倍の政権運営に表立って異論を唱えることはなかった。

石破が沈黙したのは、麻生政権での苦い記憶があったからだ。支持率が下がり、政権転落がささやかれる中、「麻生降ろし」が表面化。農水相だった石破も麻生に退陣を求めた。こうした党内抗争が政権転落につながったと総括された。

石破は周囲に「俺が安倍さんに反対して党がガタガタしたら、支持率は一気に下がる」と強調。沈黙こそが正しさと考えた石破は安倍を党側から支えた。

ただ、12年衆院選、13年参院選で大勝し、「自民1強」を固めた安倍からみれば「選挙の顔」としての石破はもはや不要だった。自らが「選挙の顔」との思いもあったかもしれない。

安倍は圧倒的な権限を持つ幹事長から石破を外すタイミングをはかっていた。転機は14年9月の党役員人事・内閣改造だった。石破はラジオで幹事長続投を訴えたが、安倍は拒否し、集団的自衛権の行使を可能にする安全保障法制の担当相を打診した。石破は「安保観が違う」と打診を拒否し、新設された地方創生相に就いた。幹事長から一閣僚への「降格」だったが、石破は閣内にいることを理由に、政権への異論を自制。「沈黙」で政権を支え続ける。

14年12月の衆院選でも大勝した安倍は、15年9月の総裁選を迎える。閣内にいた石破は立候補せず、意欲を示した野田聖子は推薦人を切り崩され、安倍は無投票で総裁選に再選された。無投票こそ、最大の沈黙だった。その後、石破が嘆き、自ら苦しむことになる「沈黙する自民党」は、石破自身が生み出し、固めていったものだった。