一方で仲本は、帰宅ができる社員をできうる限り帰した。夜、衛星電話が東京の本社とつながったときには、少しだけ安心する。箱詰め工程の天井パネルが落ちているなど、7チームが探ってきた情報を本社に報告する。

「とにかく冷静に、落ち着いていこう」。部下たちや自分自身に、仲本は訴えていた。

仲本は1961年生まれ。大阪大学工学部で発酵工学を学び、84年に入社。醸造技師として全国の工場を勤務して回り、ベルリンで醸造技術を学んだり、ミュンヘンに駐在した経験もあった。特に、「私は酵母の扱いがうまい」と自信を持っている。

2日目の夕刻、仲本は片道1時間歩いて妻と4人の子どもが待つ自宅に戻る。家族に無事な姿を見せると、再び工場へと歩いて戻る。「真っ暗な国道を、人々が黙々と歩いているのです。あの光景は忘れることができません」。

3日目の13日、本社の災害対策委員会から基本方針が発せられる。サッポロでは、仙台工場のほか、千葉工場も液状化に見舞われて被災していた。

基本方針は、一、人命第一・安全最優先。二、地域・社会への貢献。三、事業の維持・継続。優先順位ではビジネスのことは最後に考えればよかった。

基本方針発令は、仲本を心理的に落ち着かせてくれた。「工場長判断として臨機応変に対応していくための、基本を本社が示してくれたから」と仲本。何しろ未曾有の震災だ。地震発生から、仲本は独断で決裁してきたが、決めることに対するプレッシャーはきつかった。ようやく、判断の拠り所となるものが示されたのだ。

方針に基づき、仲本はすぐに次の3つを決め、部下に徹底させていく。一、立ち入り禁止区域の設定。二、単独行動の禁止。三、決して無理をしない。

有事において本社はまず、基本的な指針を現場に下ろすべきだろう。現場では一時的に指揮官にすべての権限が委ねられる。本社が意思を示すことで、現場の指揮官は余裕を持って決裁に臨めるからだ。少なくとも、孤高の決断を継続する恐怖からは解放される。

3日目は、工場内のレストラン「仙台ビール園」で炊き出しが始まり、近くの避難所にも配布していく。

4日目の早朝、東京の本社から救援物資を積んだトラックが到着する。助手席から防災服の高島英也取締役執行役員経営戦略本部長が、降りてきた。

「おぅ、ご苦労さん」

有事のときには、行動力のある役員が頼りになる。高島たちは前夜に東京を発ち、東北自動車道を夜通し走り続けてきた。高速道路を利用できたのは、救援車両として許可を得たためだったが、「自衛隊の車両ばかりだったぜ」と高島は話した。高島も醸造技師が長く、仲本の前に仙台工場長を経験して、2009年から現職である。現在は東京恵比寿の空調のよく効いた本社で背広でいることが多いが、本来は作業服姿が似合う男だった。

仲本は、従業員は全員無事であったものの、社員の家族や協力企業に亡くなった人が出たこと、把握している工場の被災状況、そして、「場合によっては復旧に、半年程度はかかるかもしれません」と所見を伝える。高島からは強い要請はない。本社は現場を精一杯サポートするが、決して邪魔をしてはいけない。

現場を知らない偉い人が重要な時間帯にヘリで降りるなど、本当はやってはいけないことだ。むしろ、偉い人は現場が自由にやれるように盾になるぐらいでなければ、存在する意味がない。

本社が出す救援トラックは定期的にやってきた。復旧の応援隊員とともにだ。紙おむつや非常食、粉ミルクなどを、ゲストホールにいる人たちをはじめ避難所の人たちに配布していった。

仲本は被災したなかで、「工場を明るい雰囲気にしよう」と決めていた。

「本日のスペシャルゲストです」と、朝礼のときに応援でやってくる社員を紹介し、元気なスピーチをもらっていた。ゲストに話してもらい「自分たちは一人ではない」という意識を部下たちに示し、復旧に向けて「確実に進捗している」と前向きに考えてもらえるようにと心を砕いた。工場内に流すニュースも、どこかの町でインフラが復旧した、漂流していたペットの犬が助かったといった明るいニュースを、多く流すようにした。

仲本はいまは次のように話す。

「小さな失敗や試行錯誤はありましたが、大きくぶれることはなかったと思います。基本方針に沿うように判断していきました。特に、有事のときには、明るい気持ちを持つことが必要。暗くなっては前に進めませんから」