国宝級の仏像が海外の美術館などにたくさん収蔵されているのはなぜか。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「明治維新の際に、仏教に関連する施設や慣習などを破壊する行為“廃仏毀釈”の動きが盛んになり、貴重な仏像が薪や武器・建材になったり、国内外に散逸したりしました」という――。

国宝級を含む日本の仏像の多くが明治維新時に散逸したワケ

1300年前につくられ、離れ離れになった一対の仏像が、現代で再会――。

鹿児島出水市の廃寺跡に残る廃仏毀釈の痕跡(仁王像)
鹿児島出水市の廃寺跡に残る廃仏毀釈の痕跡(仁王像)撮影=鵜飼秀徳

今月、そんな奇妙なニュースが話題になった。この仏像とは、滋賀県大津市の真光寺に祀られている観音菩薩立像(国の重要文化財)と、もう片方は、東京都の個人邸に保管されていた勢至菩薩立像だ。

この観音菩薩と勢至菩薩は、一般的には阿弥陀如来像を中心にした時、その脇侍として一対を祀る(阿弥陀三尊形式)。この両菩薩の高さはともに27cmほど。銅と鉛の成分がほぼ一致した。距離にして500kmも離れた2つの像が、再会するのは極めて珍しい。

その実、仏像が本来祀られていた寺から、いつの間にか遠く離れた場所に移動し、元の寺に戻らないケースが国内では散見される。

真光寺の2体がいつ、どのような経緯で引き離されたか。その真実の解明は難しい。だが、少なくともその時期は、1897(明治30)年の「古社寺保存法」(画像参考)の制定前にさかのぼるであろう。推測するに1868(慶應4、明治元)年から、1897(明治30)年のおよそ30年の間に持ち出された可能性がある。

旧古社寺保存法は歴史的な社寺や、社寺が所有する宝物について、美術的に模範になるものを「国宝」として指定し、社寺に対して保存と公開のための補助金を交付することを定めたものだ。

同法施行以降、寺社から美術的な価値の高い仏像や神像などの宝物は、寺社の管理の下に保全されるようになった。裏を返せば、それ以前は多くの仏像などが、国内外に「流出し放題」であった。このことに明治政府は強い危機感を抱いていた。

廃仏毀釈で仏教に関連する施設や慣習が破壊された

実際、日本の仏像の多くが明治維新時に散逸した。いったい、何があったのか。そこには、日本仏教史上、最悪の法難が大きく関係している。

明治維新を迎えたとき、日本の宗教は大きな節目を迎える。

新政府は万民を統制するためには、強力な精神的支柱が必要と考えた。そこで「王政復古」「祭政一致」の国づくりを掲げ、純然たる神道国家(天皇中心国家)を目指した。この時、邪魔な存在だったのが、神道と混じり合っていた仏教であった。

1868(慶応4、明治元)年、新政府は神(神社)と仏(寺院)を切り分けよ、という法令(神仏分離令)を出し、神社に祀られていた仏像・仏具などを強制的に排斥する。僧侶に還俗を迫り、多くの寺院が廃寺になった。

神仏分離令をきっかけにして、時の為政者や市民の中から、神仏分離の方針を拡大解釈する者が現れた。そして彼らは、仏教に関連する施設や慣習などをことごとくこわしていった。時代の変化の到来と市民の熱狂が引き起こした破壊行為、これがいわゆる「廃仏毀釈」である。

首が刎ねられた石仏(長野)
撮影=鵜飼秀徳
首が刎ねられた石仏(長野)