真田幸村(さなだ・ゆきむら)
1567~1615年。戦国時代の武将・真田信繁の通称。父の昌幸は武田家に仕え、武田家が滅びると独立。上田城に本拠を置く。関ヶ原の戦いでは、父とともに西軍側につく。大坂冬の陣・夏の陣に参加し、家康をあと一歩まで追いつめた。
<strong>作家・経済評論家 江坂 彰</strong>●1936年、京都府生まれ。京都大学文学部卒。東急エージェンシー関西支社長等を経て、84年に独立し『冬の火花』で作家としてデビュー。『冬の時代の管理職』『人材殺しの時代』『エリート冬の時代』など著書多数。「幸村のような人材は、改革でなくいまのように“変革”のときこそ必要」という。
作家・経済評論家 江坂 彰 
1936年、京都府生まれ。京都大学文学部卒。東急エージェンシー関西支社長等を経て、84年に独立し『冬の火花』で作家としてデビュー。『冬の時代の管理職』『人材殺しの時代』『エリート冬の時代』など著書多数。「幸村のような人材は、改革でなくいまのように“変革”のときこそ必要」という。

いま真田幸村が人気だという。

天下分け目の関ヶ原の合戦からすでに14、5年、徳川の天下と定まった時代のなかで、幸村は、不利を承知で最後の決戦「大坂冬の陣」「夏の陣」を、豊臣側の武将として戦った。茶臼山の北で討ち死にしたとき、幸村は49歳だった。

しかし、その優れた戦略と統率力で、敵軍の総大将・家康をあわや落命寸前まで追い詰めた幸村。その戦いぶりは、島津家の幹部が「真田日本一の兵つわもの」と、国元に報告しているほどである。

現代に生きるわれわれが幸村に心を動かされる理由を、その生涯を追うことで探ってみよう。

真田家はもとは武田家に仕えていた。幸村の父・昌幸は信玄の重臣の一人だったが、武田家の滅亡により、結局、秀吉に臣従する道を選ぶ。

やがて起きた関ヶ原の合戦。石田三成に与した真田昌幸・幸村父子は国元の上田城に籠城する。わずか3000の軍勢ながら知略を駆使して3万8000の徳川秀忠の大軍を翻弄、見事に退けた。だが、関ヶ原では西軍が敗北。真田父子は紀州の高野山麓にある九度山という村に無期限幽閉の身となってしまう。

10年後、父の昌幸は病没。40代半ばとなっていた幸村も、義兄に宛てた手紙に「私も急に年を取り、病気がちで歯も抜け白髪も増えた」と記している。

幸村の人物像については、兄の信幸が「柔和で忍耐強い。腹を立てることがなかった。国郡を支配する本当の侍」と語った記録が残っている。軍略家としての能力も、父・昌幸とともに戦った戦闘を通じて、十分に培っていた。だが、その幸村も指揮官としては歴史に名を残すような武勲や業績もないまま、流刑先で空しく朽ち果てようとしていたのだ。

そこに訪れた大坂城からの使者。大野修理(治長。淀君の乳母の息子)からの使者だ。要請を受けて幸村は決起する。幽閉から14年が経っていた。

大坂城には関ヶ原の合戦後も秀吉の遺児秀頼と、その母淀君が残っていたが、豊臣勢力の完全討伐を図って行動に出た徳川家康との最後の武力衝突が目前に迫っていた。いまさら豊臣側に味方するという、ハイリスク・ハイリターンを求める大名など皆無のなかで、幸村は九度山を抜け出して大坂城に駆けつけた。

幸村は結果的には父親をも上回る名将として後世に名を残したが、「大坂の陣」以前は、輝かしい実績を誇る父・昌幸の陰で「力量は未知数の二世」扱いされていた。大坂城でも、有力武将として重んじられはしたが、まだ実績のない幸村には、最適任者でありながら総司令官の地位と権限は与えられなかった。