極秘のNY決戦3カ月と3千億

<strong>榊原定征</strong>●さかきばら・さだゆき 1943年、神奈川県生まれ。67年、名古屋大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程修了、東洋レーヨン(現東レ)入社。94年経営企画室長、96年取締役、99年専務、2001年副社長、02年社長。10年より現職。
東レ会長 榊原定征●さかきばら・さだゆき 1943年、神奈川県生まれ。67年、名古屋大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程修了、東洋レーヨン(現東レ)入社。94年経営企画室長、96年取締役、99年専務、2001年副社長、02年社長。10年より現職。

1988年の春、何度も、会社に泊まり込む。プラスチック事業管理部の戦略を練る企画課長として、米企業の樹脂事業の買収争いに参戦していた。ニューヨークに滞在させていた部下やコンサルタントらから情報を得て、間髪を入れずに指示を出す。そのためには、日米の時差を克服する必要があった。

45歳。周囲は、疲労の蓄積を心配した。でも、大学や大学院時代にも、よく研究室に泊まり込んだ。実験データを1時間おきに確認しなければならなかったためだが、どこでも眠れるし、苦にもならない。

買収は、東レの連結売上高がまだ6000億円ほどの時代に、売り上げ規模が2800億円もの事業が対象だった。でも、当時の社長は「3000億円まで使っていい」と言ってくれた。上司はぐずぐず言っていたが、経営者は太っ腹だった。

当初、十数社が名乗りを上げた。二度の入札で、東レを含む4社に絞られた。いよいよ決戦だ。綿密な対応が欠かせない。極秘にニューヨークへ飛び、別件で出張にきていた部下をホテルに呼ぶ。事情を明かし、「これから最終交渉に入るので、このままアメリカにいてくれ」と命じた。部下は、1週間程度の出張支度だった。でも、「紙製の下着でも買ってしのぎ、交渉が片づくまでいるように」と言い渡す。

プラザ合意を挟む円高で、日本企業の競争力は急降下していた。東レも新社長の下、事業構造の改革やコスト削減を進めた。だが、それだけでは、将来は切り拓けない。自動車各社が、どんどん海外生産へ出ていく。貿易摩擦の激化で部品の現地調達を求める米国では、東レも生産拠点が要る。親しくしていた社長からの買収の誘いは、渡りに船だった。

4社での争いは、20億ドルから始めた。当時の為替相場が1ドル=120円台だから、約2500億円。社長に言い渡された上限額まで、あと500億円、4億ドルしかない。そこで2社が脱落し、最後の相手はゼネラルエレクトリックス(GE)だった。一騎打ちで、21億ドルから23億ドルへと上げる。「ひと声250億円」だ。だが、相手は25億ドルまで上げてきた。限界だった。

負けはしたが、ほぼ一人で仕切った。3カ月間、エキサイティングな経験だった。一課長が提案したものでも、「やろう」といった会社はすごい。改めて、見直した。

グローバル時代の幕開けとしてはもう一つ、感慨深い経験が40代にある。米モンサントとの合成樹脂での合弁だ。大型買収と相前後して計画した。これも、上司が反対する。でも、退かない。あのとき米国に残した部下は、実は、内々に合弁交渉を進めるために渡米していた。

その合成樹脂は自動車向けで、ラジエーター周辺の冷却水タンクなどに使う。これを現地生産しないと、進出した自動車メーカーに日本での取引まで切られかねなかった。強い危機感が背中を押す。やがて、調印寸前まで進んだが、上司は相変わらず「許さん」の一点張り。困ったなと思っていたら、その上司が異動した。思わず「万歳」と叫び、後任にサインしてもらい、実現させる。

平社員でも物が言え、面白い提案なら「どんどんやれ」と受け入れる企業文化。それこそが、東レの活力源だった。拙速はいけないが、上司が「ダメだ」と言っても、上司のほうが間違っているとわかっている以上、前へ出る。「自分が会社を動かす」との気概に満ちた榊原流だ。

1943年3月、神奈川県・横須賀で生まれた。兄2人、姉2人の末っ子だ。父が潜水艦の艦長で、翌年1月に戦死した。家族で父の故郷である愛知県・知多半島へ移り、母が呉服店を営んで生計を立てる。高校2年のとき、本で、日本人が炭素繊維の原理を発明したと知る。世界的な大発明で、将来は飛行機などに使われることは間違いない、とある。

「すごい。日本人でも、こんな発明ができる。炭素繊維は、飛行機の材料にもできるのか」と感激する。