住友の家訓に「信用を重んじ、確実を旨とする」がある。私はこれを仕事上の信条にしていたが、劉備や孔明たちの生き様に触れ、さらに意を強くした。顧客あってこその商売だ。当時、得意先は大小合わせて500社ほど。これまでどんなお付き合いをし、恩義を受けてきたか、一社一社詳細に調べた。そして、関係の太さを考慮しながら、注文数全部に応えられなくとも、信頼を失わないようぎりぎりの調整を行い、納得してもらった。

その後、バブルが弾けると、立場は逆転する。景気の落ち込みで製品が売れない。しかも、価格は下落する。そんなときに救いの手を差し伸べてくれたのが、バブルのときに誠心誠意対応した得意先だった。『三国志』では、劉備が三顧の礼で迎えた孔明との関係を「水魚の交わり」と呼ぶ。水がなければ魚が生きられないように、互いが必要不可欠の存在だというのだ。ビジネスにおける顧客との関係も、恩義を通じて同じようなものでありたいと願い続けている。

強敵に囲まれていた住友金属小倉

そして、私の経営者としての転機は、1998年に取締役条鋼事業部長になり、経営陣に連なった2年後に訪れた。2000年4月、住友金属工業から分社した住友金属小倉の立て直しに、社長として臨んだのである。

平成の大不況で業績は極端に悪化していた。しかも、競争社会の中では当然であるが、分社化を悪くとらえ、存続を危ぶむうわさも流れた。主力製品はシャフトなど重要保安部品向けの特殊鋼で、並み居る強敵も数多く存在していた。まさに、曹操と孫権という強力なライバルと戦う劉備の蜀そのものであった。

そんな最中に『三国志』を再び手にした私は、弱小の蜀が天才的軍師である孔明の知謀で存在感を増していく様に魅せられる。とりわけ、彼我の国力を的確に分析し、劉備へ“天下三分の計”を説く構想力は見事というしかない。「北に魏、南に呉はあるものの、中国大陸の西はまだ定まっていない」という孔明の献策で、劉備は天下人として開眼していく。

そして、住友金属小倉を甦らせる構想の要は何かを思案するうちに、古い高炉に目が向いていった。通常、高炉は20年から25年も稼働し続ける。それだけに先を読む深謀遠慮が不可欠となる。しかし、古い高炉のままでは、2、3年のうちに生産量や品質の面で顧客のニーズに応えられなくなり、ジリ貧になっていくのは明白だったのだ。

「今天下三分し、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋(とき)なり」という「出師(すいし)の表」での孔明の決意に通じるものがあったのかもしれない。「何で、こんな時期に」といった反対意見が噴出したものの、多くの関係者を膝詰めで説得し、高炉建設という乾坤一擲の勝負に打って出たのだ。

もちろん、どんなに素晴らしい構想を打ち出しても、それを実行する人材がいなくては絵に描いた餅に終わる。蜀には孔明の戦略を着実に遂行する関羽や張飛、趙雲といった股肱(ここう)の将軍たちがいた。当時、小型高炉の建設には200億円かかるといわれていた。しかし、住友金属小倉の技術陣が叡智を振り絞って画期的な工法をあみだし、何と90億円でつくり上げることができたのだ。その高炉はいまも住友金属小倉の屋台骨を支えてくれている。