足跡を残さない「善行」の仕事運び

1944年8月、疎開先の岡山県倉敷市の母の実家で生まれた。1歳のときに、兵庫県尼崎市の父のもとへ戻る。兄1人、姉2人、弟1人の5人きょうだい。母は体が弱く、高校3年のときに亡くなった。早くから、自立精神が養われていく。県立尼崎高校から神戸大学経営学部へ進み、就職は中学時代から化学の授業が好きだったこともあって、住友化学工業(現・住友化学)を選ぶ。

30代後半のとき、社史発刊に携わった。OBらに執筆を頼み、原稿に目を通す。目立たない仕事だが、得るものは大きい。1913年の創業以来、会社がどんな問題を乗り越え、トップがどんな決断を重ねてきて今日があるのかがよくわかった。同時に『住友家法』などに表れる住友精神も、頭に染み込んでいく。

94年4月、49歳で総務部長になる。すると、また、社史の担当がやってきた。今度は「最近20年史」だ。振り返れば、創業から80年間、約25年おきに大きな節目があった。でも、いまや変化が激しい時代。もう20年くらいの間隔で記録していかないと、方向感がつかめない。再び原稿を読み、会社がいまある「座標」を再確認する。

総務部門には、役員になるまで23年半もいた。この間、リポートを書き続けた。でも、歴史ある企業は抱えているものが重いのか、なかなか改革に動かない。「なぜ、そんなことを、いまやる必要があるのか」。改革案の意義は分かったとしても、そう言って終わってしまう。それでも、いろいろなデータを集めて、機会があるごとに説明した。

ただ、上司を説得するには、答えを押しつけてはいけないし、急いでもいけない。本人が「自分も前からそう考えていた」と思って、自ら断を下した形にしないと、うまく運ばない。だから、言い方には気をつけた。「こうすべきです」などと、単刀直入には言わない。最初は「どうも、こういうやり方も世の中に出てきています。うちの会社も、気をつけなければいけないと思います」というだけにする。次も「何か、ちょっと、世の中に動きが出てきていますね」くらいでやめておく。3回目になって、ようやく「そろそろ、うちでも考えたほうがいいのではないかと思いますが」と前へ出る。そのころには、上司も「そんなことは、オレが、すでに考えている」と思うようになっている。数回に分けて、いろいろな表現で具申していくほうが、回り道にみえても早道だ。

決算期を多くの取引先などと合わせるために、12月決算から3月決算に変えたときも、そんな段階を踏んで説得した。これも、40代の終わりのころだった。

今年4月に社長に就任した。直後に発表した09年3月期決算は、世界同時不況の中、第二次石油危機以来の赤字に転落した。だが、これには、負の遺産を新社長に残さないための前倒し処理が多かったためもある。もちろん、世界経済の現状は厳しい。社長就任内定の会見で「手品のような改善策はない」と言った。でも、決算発表時には「決して、下を向いて歩む2年間にはならない」と、先行きに自信ものぞかせた。

社長昇格が内定したとき、新聞は「調整型の人」と紹介した。だが、それは経歴の表面だけをみた報道と言える。ここで書いてきたように、常に「事業の将来」「会社の将来」への模索が、頭の中にある。果敢な挑戦も続けている。調整型どころではない。ただ、そんなことは、おくびにも出さない。実績に触れても、「何のことですか?」と受け流す。

「善行無轍迹」(善く行く者は轍てつせき迹なし)――上手に歩みを進める人は、後に足跡を残さない。同じように、立派な仕事をした人ほど、自らを誇るようなものなど残さない。目立つ必要など何もない、と説く『老子』の教えに、廣瀬流が重なる。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)