「私は『スーパードライ』は、神様がアサヒに与えてくれたプレゼントだと思っています。それまでは業界3位で長い間低迷を続けていました。それを救ったのが『スーパードライ』。今度もその再現をやるしかないだろうなと……」

荻田は本社に呼び戻されたとき、そう思ったという。4年ぶりに帰ったアサヒビールは、やはり「スーパードライ」のメーカーだった。ビール市場で50%を超える大砲を持っているだけに、それに頼ってしまう。シェアを死守しようとするあまり、カニバリを恐れて、思い切った商品開発ができていないのだ。

社長としての役割は発泡酒、新ジャンルのヒット商品をいかにつくるかだと決めていた。そのためには、現場から発想し、スピードを持って対応するしかないということを再確認していた。泉谷の酒類本部長への登用もマーケティング本部新設もそのための布石だった。

「私の流儀は、この人と決めたらすべて任せきることです。やる気、モチベーションを引き出すには、実力を認め、どんどん仕事をしてもらう。そうすれば、自然に知恵もわいて、成果はついてくるんです」

荻田は成果を検証するために、土日に関係なく、全国の支店や工場を回り、多くの営業マンや技術者と会う機会を設け、アサヒの直面する課題を話し合ってきた。もともと、営業経験の豊富なトップである。しかも、アサヒ飲料時代には、「三ツ矢サイダー」のテコ入れにも成功した。社長と直に顔を合わせた若手たちが活気づくのは当然だった。

荻田が大切にしているのがアサヒの成功体験を次世代に語り継いでいくこと。アサヒの場合、新しい商品が売れないと、必ずといっていいほど「スーパードライ」の一本足打法から脱却できないからだと揶揄される。

だが荻田はこう断言する。

「あの『スーパードライ』のときは、営業も生産も、総務も経理の社員も全社一丸で、売れるビールに取り組みました。開発に際しては調査を何度も行い、社員が考えに考え抜いて、大ヒットを誕生させたわけです。成功は“驕る”ものではなく、“語り継ぐ”ものです」

もちろん、20年以上もたてば、消費者の嗜好も営業の現場も様変わりしている。ビールから、より低価格志向のジャンルに移り、それらを売るのは問屋や飲食店ではなく、スーパーやコンビニなどの量販店だ。しかし、その中でも「スーパードライ」はビールナンバーワンを維持し続けた。

だから06年の前半は、「スーパードライ」に注力した。この年は5月1日の酒税法改正で、ビールが減税になり、発泡酒と新ジャンルが増税になった。減税前からビールで確固たる優位性を確保し、減税後はさらにシェアを伸ばす。そして、増税前の駆け込み需要が落ち着く5月以降に新ジャンルの新商品で勝負をかけるというのが戦略だった。

そもそも、02年にアサヒ飲料副社長としてグループ会社に赴任したときに荻田は、アサヒビールへの復帰、ましてや社長など想像すらしていなかった。実際、妻には退任後の四国遍路を約束していたという。