年収1000万円以上のビジネスエリートに「好きな著者」を聞いたところ、カーネギーやドラッカーを凌いで、なんと司馬遼太郎が堂々の1位に輝いた。彼らはなぜ経営書ではなく司馬遼太郎作品を読むのだろうか。

司馬遼太郎が多くのビジネスマンを魅了してやまないのは、彼の小説が「実務感覚」に溢れているからである。彼の小説は、純文学とも大衆文学とも違う、いわば「司馬文学」としかいいようのない特殊なジャンルを構築している。

たとえば、ある戦争を小説として描く場合、その描き方にはいくつもの方法がある。人間の生死の問題をテーマとして扱う手法もあれば、一大歴史大河ロマンとして描く方法もある。村上春樹は、ノモンハン事件を題材にして『ねじまき鳥クロニクル』を書いているが、そこはやはり彼のこと、非常に文学的なアプローチで描いている。ところが司馬遼太郎は、戦争すらも一種の実務書として描いたというのが私の読み方である。ビジネス書ではないが、戦争に至るまでの経緯や背景を、こと細かに実務レベルから解き明かしているのだ。

明治時代、近代化を目指してひた走る日本の姿を描いた『坂の上の雲』を読むとき、我々はそこに現代社会に通じるビジネス感覚や、大局を動かす人物に共通する素質を読み取ることができる。日露戦争での旅順の攻防戦などは、ひとつのプロジェクトとして描かれているし、それを指揮する大将らの評価の仕方も、企業のリーダー評価に通じるものがある。

このような描き方は、司馬がもともとは新聞記者であったという経歴に由来する。そもそも彼の小説は、ビジネスに携わる人間が興味を抱くような効果が施されているのである。

「実務感覚」とは、いうなれば現場主義である。ある事態に直面したとき、問題を解決するのに必要なのは、机上の空論ではなく、実際に現場に飛び込み、肌で状況を感じ取って奔走する行動力である。司馬作品に登場する人物たちは、それをする。それぞれのアプローチで硬直化した状況を打開していくのだ。

最近の脳科学の研究では、「真の学習は、自らの身体を動かしてのみ習得される」ということが明らかになっている。つまり、人間は実務を通してしか学べないということだ。

若いころは誰しも、思春期にありがちな理想や理念に固執しがちである。だが真の学習とは、社会人になり世間に揉まれ、仕事に真摯に接し葛藤していく過程でのみ身についていくものである。実際に行動していくなかで当初の仮説を修正し、再び行動していく。そのループが人生をつくり上げ、さらには歴史を築いていくのである。

ビジネスリーダーたちはそのことを知っている。そして、司馬文学は、そこを決して外さない。青春期の理想に燃える若者が、生の行動を通じて、理念を現実へと変えていく。その描き方こそが、多くの“上に立つ人々”の心をとらえて離さぬ司馬文学の醍醐味なのである。