納得できないまま自分の宿命だと思って親の面倒をみた

私の場合、親とは縁が薄かった。9歳のときに家業が没落して父母は失踪、一家は離散した。その後、ほとんど一つ屋根の下で過ごした記憶がない。

しかし縁が薄いから親の面倒をみなくてもいいのかといえば、親子関係というのはそんなに簡単なものではない。納得できないまま、老いた親の面倒をみる。同じような悲劇に見舞われた人は世の中に少なくないと思う。

家庭を大切にして、きちんと子供を育てた親というのは、それなりに人格もきちんとしているから、老後もあまり子供の世話にならない。子供をほったらかしにするような親ほど自分の人生もそれなりであるから、あとは子供に面倒をみてもらうしかないようになる。

そんなわけで私は随分と面倒をみた。これは自分の義務だと思い、宿命だと思った。いい顔をしてやっても嫌な顔をしてやっても同じ。どうせやるなら、いい顔をしてやったほうが自分も気持ちが楽だし、はたからみても見栄えはいい。そういうつもりで親の面倒をみたのだった。

もっとも自分が介護を受ける立場になったら、絶対に子供には迷惑をかけたくない。それが親心というものである。子供に面倒をみてもらうくらいなら、それまでにしっかりお金を貯めておいて、営利事業で介護をやっている人にお任せする。最後までギブアンドテーク。これが一番後腐れない。

介護であれ、なんであれ、そもそも自分の子供にすべてを期待するのは親として間違っている。過度な期待は子供を不幸にする。子供の人生をいつまでも自分の人生の一部だと考える。いまわの際まで自分の人生の期待を延々と子供に託して背負わせる。子離れできない親の究極だろう。

小説家の仕事には定年がない。死ぬかアタマがボケてしまうまで仕事は続けられるのだから、多分70、80になっても同じような仕事をしているのだろう。いつ死んでも不思議ではない人生を送ってきたので、精神的にはタフにできている。悟るというか、諦めるというか、死の恐怖からは免れられるように思う。

しかし痛いのはダメである。それだけは勘弁してほしい。精神的にも肉体的にも楽に死にたい。かつて陸上自衛隊の普通科連隊に在籍していたとき、身の回りにあった強力な武器であっという間に死ぬのが理想だと考えていた。だが今は、ちょっと違う。周囲が納得できない死に方はしたくない。やはり人間、畳の上で死にたいものだ。食事を呼びにきた家族が書斎を覗いたら、書きかけの原稿用紙の上で死んでいたというのが一番理想に近い。

とはいえ、ウチの家族は不思議なぐらい私の身体を心配しない。どうやら私は死なないとでも思っているらしい。

確かに健康である。コレステロールだ、中性脂肪だと医者から言われるが、あれは中高年のほとんど全員が言われているのだから気にしていない。気をつけているのはストレスだ。怒る。イライラする。それが病気の元だと思っている。「煙草をやめなきゃいけない」と考えること自体がストレスなのだから、煙草をやめるつもりはない。「これは身体に毒だ」と感じながら煙草を吸えば大変なストレスだが、身体にいいと思って嗜んでいるのだから、身体に悪いはずがなかろう。

酒は昔から一滴もやらない。こてこての脂肪肝だが、食いしん坊だから仕方がない。やりたいことをやる。やりたくないことはやらない。昔からそういう性格なのだ。

(撮影/若杉憲司 構成/小川 剛)