「男同士の絆」をもてる熱い心があった

16万の大軍を確実に無駄な費用をかけずに朝鮮半島に運ぶわけで、どれくらいの大きさの船を何隻用意し、何往復させたら効率がいいか、また食糧の補給はどれくらいの頻度で行うべきかなどの緻密な計画を立て、それを円滑に実行しました。しかし6年に及ぶ朝鮮出兵は秀吉の死で中断されます。問題は朝鮮半島に在留する軍勢をどうやって安全に帰国させるか。敵に後ろを見せず、情勢不利ななかで三成は一切の指揮をとり、大軍を安全に撤退することに成功しました。

三成を怜悧な官僚だったと見る人がいますが、私はそうは思いません。たとえば、越前敦賀の大名・大谷吉継との間に熱き友情を結んでいます。1577年、秀吉は佐吉を元服させ、石田三成が誕生します。その祝いに2000石の加増をいわれましたがそれを断り、自分の代わりに一つ年下の大谷吉継を推挙しました。吉継は九州の大友氏に仕えていましたが、秀吉に仕官することを願っていたのです。三成はこのような男同士の絆をもてる熱い心をもっていました。その後、吉継は三成の推薦で小姓に取り立てられ、奉行、軍監と出世していきます。

吉継は後に伝染病を患い、日頃から顔や手を布で覆い隠していました。あるとき、秀吉の茶会で吉継に茶碗が回ってきました。吉継が飲もうとしたとき、鼻水が垂れ、茶の中に落ちてしまいます。居並ぶ諸侯たちは、感染をおそれ、回された茶碗を飲むまねだけをして、次々に空飲みをして送っていきました。やがて茶碗は三成の膝元に届き、三成はそれを高々と持ち上げて、ことごとく飲み干したのです。

吉継は、関ケ原の戦いの際に三成から挙兵計画を打ち明けられ、家康に勝てるわけがないと忠告しましたが、「秀吉様の遺言をこれ以上踏みにじらせるわけにはいかぬ」という三成の決意に腹をくくりました。吉継は三成を助けて、悲惨な最期を遂げました。