ところが、司馬さんは違いました。司馬さんが描いたのは、「歴史の中にこんなに素敵な漢(おとこ)たちがいる。彼らを見てくれ」という彼の物語、つまり「his-story」です。「his-story」は「history」ですから、歴史小説が多い。そこに近代文学と一線を画し、しかも現代のエンターテイメントとも異なる司馬文学の本質があります。もっとも、歴史を描く作家は大勢いるし、なかにはベストセラーになる作品もあります。ただ、その新しい多くの作品は次々に忘れられていきます。なぜ司馬作品だけがいまなお愛され続け、さらなる読者を獲得しているのか。それは「彼の物語を見てくれ」という作品によって、従来の歴史観の変革を行うと同時に、そこに司馬さんの美学が込められているからだと思います。

人間の心の中には、2つの相反する精神が同居しています。一つは、「美しいものを見ようと思ったら、目をつぶれ」というロマン主義です。もう一つは、「現実をあるがままに見よ」というリアリズムです。司馬さんは、ロマン主義とリアリズムの両方を見つめた作家でした。

たとえば『燃えよ剣』の主人公、新撰組副長の土方歳三は、ロマン主義精神の人です。農家の出身でありながら、武士になることを志して新撰組に入り、士道を守ることを局中法度に定めて、自ら士道に殉じて死んでいく。作品の中でも、武士のまま散っていく美しい漢として描かれています。

ただ、土方に現実が見えていなかったのかといえば、そうではありません。土方は鳥羽伏見の戦いで、薩軍の大砲と銃撃にさらされました。そこから逃げてきた江戸城で敗戦を振り返り、

「もう、槍や刀の時代じゃあ、ねえ」

と、時代の変化を一言で鮮やかに切り取っている。土方は時代に抗うだけでなく、冷静に時代を見る目を持っていたのです。それでもなお、大砲や小銃を構える明治新政府軍に白刃を掲げて突っ込んでいくからロマン主義の人といえるのですが、司馬さんは土方のリアリストの一面に光を当てることも忘れませんでした。