そこで、政府が独自に2兆円をかけた事業を行う場合を考えよう。

民間企業は、前と同じように、投資需要と消費需要の和に対応した500兆円分の生産を行うはずだ。したがって500兆円分の貨幣が、いったん企業から家計に支払われる。さらには、政府は労働者を雇い、2兆円分の公共事業を行うので、政府部門から国民に2兆円の貨幣が支払われることになる。(話を簡単にするため、政府部門も貨幣ストックを持っているととりあえず仮定しておく)。これで家計部門は502兆円の貨幣をいったんは所得として得る。これが納税前の国民所得である。

そして、家計部門は所得のうち400兆円で企業部門の生産した財を消費のために購入し、100兆円を貯蓄する。この貯蓄が金融市場を通じて企業に提供され、企業部門が100兆円分の財を投資のために購入する。残る2兆円は政府に税金として納められる。このように考えれば、可処分所得は500兆円だとわかる。つまり、民間部門の生産量と国民の可処分所得は、ともに500兆円で、公共事業がない場合となんら変わらない。

問題となるのは、残る2兆円の意味である。公共事業によって財が本当に2兆円分生産されたのかどうか、ということだ。もう一度確認して欲しいのは、やはり「お金の流れ」である。

2兆円の貨幣が税金として家計から強制的に政府に流れ、また公共事業の労働報酬として家計に戻ってきている。

このとき行われた公共事業が、仮にケインズのいう「穴を掘ってまた埋める」ような、実体を持たないものであったとしよう。つまり、政府が「穴を掘って穴を埋める」仕事をした労働者に税金で徴収した2兆円を支払ったわけだ。この場合、生産物の実体的な増加はゼロであるといっていいだろう。つまり、国全体として、財の生産量は民間部門の生み出した500兆円分だけである。しかし、国民所得(納税前所得)は502兆円となっている。総生産と総所得がズレてしまったからくりは、どこにあるのだろうか。その理由は、家計から税金として強制的に徴収され、無内容な公共事業の報酬として戻ってきた「単なるお金の行き来」を所得として計上していることに求められる。

大事なことは、「単にお金が流れたからといって何かが生産されたわけではない」、という点なのだ。辛辣な言い方をすれば、単なる所得の見せかけの「水増し」なのである。このような「みかけの金額の増加」は、企業の粉飾決算によく使われる手口である。つまり、企業が関連会社の間でお金を行き来させて、あたかも「売り上げの増加」であるように見せかける不正会計と同じからくりなのだ。