「穢れなき普通の都民」を代弁し、「腐敗した敵」を設定

私は『ルポ 百田尚樹現象』の中で、オランダ出身の政治学者カス・ミュデらのポピュリズム論を参照している。彼らの定義はこうだ。

「社会が究極的に『汚れなき人民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意志の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」(カス・ミュデら『ポピュリズム:デモクラシーの友と敵』白水社、2018年)

この定義が優れているのは、中心の薄弱さと二項対立的な構図にこそポピュリズムの本質があると指摘しているところにある。「都民ファースト」という言葉に象徴的に表れる小池の政治手法は、この定義にピタリとあてはまる。彼女は「穢れなき普通の都民」を代弁し、「腐敗した敵」を設定することで、支持を調達してきた。

小池のようなポピュリストにとって、確固たる信念に基づく体系的かつ論理的な一貫性はなくていい。良くいえば柔軟、悪く言えば体系がないからこそ、過去にとらわれず「今」このときの自分を打ち出すことに執着する。

彼女は一貫して、「夜の街」をターゲットにした発言を繰り返したが、これにより「夜の街に出入りする人々」を特殊な人々、「普通の都民」とは違う人々であると印象付けることに成功した。

「腐敗した政治家」になることを恐れ、「対立」を避けた

さらに、今回の選挙戦で小池は徹底的に他の候補者と並ぶ機会を絞った。ここにポイントがある。新型コロナ対策で連日テレビに出ており、圧倒的な優勢は伝えられていた。下手に討論をして失言するくらいなら黙っておいたほうがいい、と判断したのだろう。

何度かあったウェブ討論でもよく聞けば疑問しか膨らまない抽象的な答えを返すか、積極的に沈黙を保つだけだった。ポピュリストであるがゆえに、小池は自身が「腐敗した政治家」になることを恐れ、「対立」を避けることで、他候補者のエネルギーを奪った。

前回の選挙戦で高らかに掲げたが、ほとんど達成できなかった「待機児童ゼロ」「残業ゼロ」「都道電柱ゼロ」「介護離職ゼロ」「満員電車ゼロ」「多摩格差ゼロ」「ペット殺処分ゼロ」――7つのゼロはいったいどこにいったのかと問うても、彼女にも、彼女に投票した人にも響かないだろう。そんなものは、すでに過去の話だからだ。

都知事として「職務を全うしている」という雰囲気を作り出す。7月に入って新規感染者が100人を超えると、おもむろに会見を開き、深刻な表情でフリップボードを掲げる。彼女はコロナと対峙する構図を作ることだけで今回の選挙を乗り切る道を選び、それに成功した。