キリストは笑ったか?
中世を生きた西洋人の深淵なる価値観を知る

ヨーロッパをテーマにした歴史小説でも、日本人にあまり知られていない時代、中世を描いたものが興味深い。なかでもウンベルト・エーコ著『薔薇の名前』は、僧院で起こった殺人事件を描きながら、中世を生きた人々にとって信仰とはどのようなものであったかを浮かび上がらせた名著です。

現代を生きる私たちは、中世を「近代」が訪れる以前の暗黒時代と思いがちです。しかし中世の人々の視点に立つと、古代こそが「神のおあしまさぬ暗黒時代」。キリストが神を説いて初めて人類は救われたと考えるからです。彼らにとって、それ以前を生きた人々はみな地獄に落ちたのです。

この辺りの感覚は日本人にはわかりにくいですが、だからこそ本書の面白さは際立ちます。

例えば「キリストは笑ったか論争」などは驚くべき話です。キリストが笑ったかどうかでアルビジョワ十字軍という戦争にまでなるのですから。ミステリー仕立てということもあり、引き込まれて読むうちに中世ヨーロッパの価値観を理解できます。

対してアメリカを舞台にしたものでは、マーガレット・ミッチェル著『風と共に去りぬ』が素晴らしい。

歴史とは、常に言われるように、勝者の側の記録です。本書は南北戦争を敗者の南部側から描いています。

スカーレット・オハラ、レット・バトラーといった登場人物が魅力的ですが、それだけではありません。この本が書かれたのは1930年代。南北戦争の約70年後です。つまり今の日本人が太平洋戦争を見るような感覚であったことでしょう。そのうえでマーガレット・ミッチェルが時代の変化を巧みに描いていることに注目したい。歴史小説として読んでほしいですね。

さて、日本の作品からはまず吉川英治の『宮本武蔵』を挙げましょう。

本書は史実半分・創作半分、歴史小説と時代小説のちょうど中間といった趣があります。そして、面白さのポイントもそこに求められるでしょう。

そもそも歴史小説というとき、歴史的事実に嘘があってはなりません。ただ、史料が残されていない個所に想像力を働かせることで、歴史的事実をさらに深く解明していくことができる。それは、歴史小説の書き手としての私の基本的態度でもあります。

宮本武蔵の場合は正確な文献が残っていません。そうした史料の少ない人物を取り上げたことによって、この本は吉川英治の文筆力と想像力が実によく発揮された一冊となっているのです。

その筆致は、話が途中で途切れていても気づかないくらいに滑らか。徒然に読むだけでも、文章の素晴らしさを堪能できる小説です。

(構成=稲泉 連 撮影=若杉憲司)