千利休(せんの・りきゅう)
1522~91年。和泉の国、堺の商家に生まれる。若年から茶道に親しみ、武野紹鴎などに師事した。信長の茶頭となった後、秀吉に仕える。北野大茶湯に関わるなど、筆頭茶頭として、重用されるも、秀吉の命で京都にて切腹。

茶聖・利休というと、枯れた老人が何の欲得もなくお茶を点てているイメージがあります。私もそういう先入観を持っていた。しかし、取材やお稽古を通じて、ただ侘びて枯れただけで、あれだけ美に執着し、美を知り尽くそうとできるはずがないと強く思うようになりました。

侘び・寂びにはどうしても枯れたイメージが付きまといます。しかし侘び茶は室町時代に能阿弥が大成した書院台子の茶に対するムーブメントであって、利休のお茶のコンセプトが侘びていたわけではない。無駄なものを削ぎ落として、削ぎ落として、ひなびた風情をつくるのが利休の“侘び”です。そして削ぎ落とした後に残るものがある。それは何か――。“命”だと私は思っています。

見解が違う人もいると思います。井上靖さんの『本覺坊遺文』を読むと、「枯れかじけて寒い」世界よりも厳しい、武士が死ぬ世界を利休がつくろうとしたと井上さんが解釈しているように私には読める。しかし、私は逆のことを感じたのです。

最初に感じたのは、利休好みの棗や水指を美術館で見たときです。真塗(黒漆で塗り上げること)の棗のカーブも、水指の丸さも実にふくよかで、ちっとも枯れて見えない。エロチックでさえあるように感じられました。さらにお茶を習いに行くと、決して枯れたことばかりではなく、茶花として椿の蕾が好まれたりする。つまり命の芽吹きを愛でるのです。

村田珠光や武野紹鴎がつくった侘び茶の精神は、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という藤原定家の歌に象徴される、本当に枯れた世界です。一方、利休の侘び茶は藤原家隆の「花をのみまつらむ人に山里の雪間の草の春をみせばや」という歌でたとえられます。雪の谷間から命が芽吹いて春を待つ。命の芽生えの美しさが利休のお茶です。

むしろ侘びとは対極にある利休の美意識、艶やかさ。美の司祭者の根源にあったものは何か。利休は恋をする力の強い人だったに違いない。若い頃に情熱的な恋をしたのだろうと想像して、『利休にたずねよ』という小説を描きました。

心を奮い立たせる三カ条
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心を奮い立たせる三カ条

職人的な仕事をする人は、自分が一番と思っていないとできないところがあります。美に携わる職人である以上、「自分が一番美について知っている」と思わなければ仕事はできない。物腰こそ慇懃でもプライドの高い人だったと思います。パトロンである秀吉に頭を下げつつも、「美の深淵は私のほうが知っている」という自負は強かった。

打ち首になった高弟の山上宗二のように、言わなくていいことを口にするわけではない。ただ、絶対的な審美眼に対する自負を時折表してみせる。想像にすぎませんが、そんな気がしてなりません。

秀吉はそれがだんだん小癪に感じるようになり、山崎待庵以来、蜜月のようだった2人の関係は冷え込んでゆく。自分が愛でた赤楽の茶碗より「黒い茶碗のほうが美しい」と利休が思っていることを秀吉は感じていたのでしょう。

権威で万人を跪かせようとする天下人。額ずくのはただ美しいものに対してのみという信念を貫く天下一の茶の湯者(もの)。互いに譲ることなく、最後は信念に殉じる美しさを見せつけるように利休は自刃して果てました。

先日、大徳寺の和尚さんから「禅もお茶も目の前にあることを一生懸命することが大事」と言われてなるほどと思いました。ただお湯を沸かすことに一生懸命になる。ただお茶を点てることに一生懸命になる。ただ一生懸命にお茶を味わう。過去に心囚われたり、未来を気に病んで、今を疎かにしてはいけない。今あることを大切にして、目の前の茶の湯を楽しむ。地位や権力におもねらず、利休が追い求めた茶禅一味の世界とは、そういうものだったのではないかと思います。

(構成=小川 剛)