西洋美術史的なテーマで、何度も繰り返して登場するものに英語の「ヴァニタス(vanitas)」、ラテン語の「メメント・モリ(memento mori)」があります。しりあがり寿さんのマンガに「オーイ・メメントモリ」という作品があるのでご存知の方もおられるかもしれません。ラテン語の「メメント・モリ」を直訳すると、「死を想え」「死を忘れるな」という意味になります。「死を想え」がそのままタイトルになったり、それがテーマの絵画は、ルーブル美術館やウィーン美術史美術館にある17世紀のオランダやフランドル地方などの静物画の作品で、花瓶にいっぱいの花の傍らに頭蓋骨が置かれたり、時計が置いてあったりする、若干、憂鬱な絵です。おそらく一度くらいは見たことがあるでしょう。正直な話、私自身も西洋美術史の授業を受けていた時、この不気味な絵は何だろう、どこが面白いのだろうと素朴に思いっていました。

アンジェロ・フェノメノ<br>
幻想的に表現されたオニキスやスワロフスキーで作られた町並みがドクロの不気味さを際立たせている。
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アンジェロ・フェノメノ 幻想的に表現されたオニキスやスワロフスキーで作られた町並みがドクロの不気味さを際立たせている。

ところが、この「メメント・モリ」、近代・現代でもある程度時間が経つと、まるでサイクルでもあるかのように必ず登場してくるのです。勘の良い方なら「そういえば、最近のファッションにドクロがたくさん出てきているわ」とお思いになるかもしれません。その傾向が顕著に出たのは、前回、2007年のヴェネチアビエンナーレでした。いろいろなアーティストが作品の中にドクロを使い、なんだか人間の死がとても簡単で軽くなってしまっている事を、悔い改めろ、とでもいっているように感じました。

「メメント・モリ」が意味するのは、貧乏人も金持ちも等しく死神が連れ去るということです。このフレーズが聖書のイザヤ書の中に登場することもあって、キリスト教的には、現世での楽しみや贅沢は空しいものだと解釈されてきました。時計も現世での時間が減ってゆくことを示唆し、ヨーロッパの街頭にある時計などには「temps fugit(光陰矢のごとし)」と刻まれていることも多いのです。前述のしりあがり寿さんのマンガ本では「死に近づくほど生が見えてくる」あるいは「死のないところにリアルはない」というコピーが帯に書かれています。

最近、公募展の審査や若いアーティストの作品を大量に見る機会があったのですが、彼らの作品の中に登場する「死」は、非常に美しく、空想的で、リアルな雰囲気とは程遠い感じです。やはり現代社会の中では「死」は身近ではないのでしょうか。しかし、ほぼ同時期に公開され、滝田洋二郎監督の映画「おくりびと」(第81回アカデミー賞外国語映画賞受賞)とデヴィット・フィンチャー監督の「ベンジャミン・バトン」では奇しくも「死と永遠」という同じテーマが溢れています。このことは流行のファッションにドクロが出てくることと繋がっているとしか私には思えません。欧米にもアジアにも同じムードがある。現在の状況には「メメント・モリ」が必要とされている。いえ、時代の空気がそのムードを推し進めているのかもしれません。

だとしたら、現代アーティストは、もっと「死」を扱い、決して陰鬱ではない作品を今こそ、生み出す必要があるのではないでしょうか。前回のヴェネチアビエンナーレにあった作品を少し紹介しましょう。