翌日、直ちに帰国した水野は、空港から本社へ直行。「俺はこれから副社長の机を引っ繰り返しにいく。みんな世話になったな」と周囲に宣言し、15階に乗り込むと、副社長室の扉をノックした。

開きかけた扉から副社長の顔がのぞいた。水野が口を開きかけたその瞬間、右後方から人の気配が……振り返ると、そこにはゴーンCEOが立っていた。

呆然とする水野と副社長。ゴーンはつかつかと水野に歩み寄ると、その手を取って英語で語りかけた。

「君をミスターGT-Rとして任命した。任せると言ったのは私だ。従来のやり方に囚われず、やりたいようにやっていい」

水野は、何と返事したか覚えていない、という。「何かこう……神様から与えられたって、やっぱり感じたよ」。後に副社長から「俺だって、あんな頼まれ方をされたことないぞ」と羨まれるほど、それは劇的な光景だった。

水野(中央のネクタイ姿)と開発メンバー。国内外のサーキット上でプロジェクトは進行。少数精鋭で迅速、費用も同水準の車両の開発費用の約半分で済んだ(仙台ハイランドにて)。

水野(中央のネクタイ姿)と開発メンバー。国内外のサーキット上でプロジェクトは進行。少数精鋭で迅速、費用も同水準の車両の開発費用の約半分で済んだ(仙台ハイランドにて)。

翌04年1月、プロジェクトは本格稼働し始めた。期限は07年。新車開発の通り相場である6~7年の半分、しかも時速300キロ超の世界を知る者は、レース経験の豊富な水野ただ1人しかいない。

「リーダーの仕事は人をそろえることではなく、人の心と価値観をつくること」が持論の水野は、最初の1年半は人づくり、残り2年で車づくり、とはじくと、わずか9カ月で試作車をつくり上げ、“因縁の地”ニュルに乗り込んだ。

国内外のサーキットの路上に試作車を走らせつつ開発を進める、という異色の体制を敷いた。世界中の自動車メーカーの集まるニュルの試走場で、「一歩間違えればドライバーが死ぬ」(水野)ひときわ危険な北コースが主戦場だった。ここで試走する、データを取る、改良する、また試走する……この繰り返しで車を鍛え上げていくのだ。

コアメンバーは約50名、多いときで100名。外郭が500~600名。さらに裾野を含めると1200名を超えた。メンバー招集は各部署に要請する。エース級が送り込まれるとは限らないようだが、「落ちこぼれ結構、いい子は不要」と水野は意に介さなかった。