四賢侯のひとり、薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)は、すんなり藩主になれたわけではなかった。斉彬は、江戸の薩摩藩邸において、10代藩主島津斉興(なりおき)と正室弥(いよ)姫のあいだに生まれた。

だが、鹿児島にいる斉興の側室お由羅は、斉彬より8歳年下の庶子久光を生んでいた。

次期藩主、つまり世継ぎをめぐって、正室弥姫とお由羅が、「わが子を藩主に」で対立。藩内だけでなく、幕閣、諸侯も、斉彬派と久光派に分かれることになった。

斉彬派には、その英邁ぶりに期待する老中の阿部正弘、宇和島藩主の伊達宗城(むねなり)ら、江戸表での陣営が整っていた。

いっぽうの久光派の筆頭は、藩政改革で名高い薩摩藩家老の調所広郷(ずしょひろさと)。

だが後継者争いがつづくさなかの、嘉永元年(1848)12月、久光派の重鎮、調所が江戸の薩摩藩邸で急死した。藩政改革のために行った密貿易が幕府に発覚したことを理由とする服毒自殺(毒殺説も)だった。

調所の死で久光派の力が衰えたかにみえた矢先、斉彬派にも不穏な空気が漂う。

斉彬の六男七女、13人の子のうち、三女と五女を除き、11人の子が7歳までに死んでしまうのだ。

斉彬派は、「呪詛の疑いがある」と調査。その結果、次男が死んだ座敷の床下から呪詛人形で出てきた……。

怒り心頭の斉彬派は、お由羅・久光らを暗殺しようと計画するが、これが露見。

クーデター計画を知った藩主斉興は「御家騒動」から藩が取り潰される可能性があると激怒し、斉彬派の粛清をはじめ、50人以上が処分された。

これを知った斉興の叔父たちが、いっせいに斉彬を応援。将軍徳川家慶からも暗に隠退を勧められた斉興は素直に従い、11代藩主には斉彬が就いた。

これが、世に名高い「お由羅騒動」の顛末だ。

藩主になった斉彬は、宇和島藩の伊達宗城に負けず劣らず、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉や溶鉱炉の建設、地雷・水雷などの武器、ガラスやガス灯の製造など西洋文明を採り入れた。

また、病弱で子のない13代将軍徳川家定のため、養女篤姫(あつひめ)を、近衛家の養女にしたうえで「降嫁」させるなど、幕政にも積極的に口を出した。

だが、ともに一橋慶喜(のち徳川慶喜)を推薦したことで、宇和島藩主伊達宗城、福井藩主松平春嶽(しゅんがく)、土佐藩主山内容堂(ようどう)、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)らとともに将軍継嗣問題に敗れた斉彬は、抗議するため、藩兵を率いて上洛を計画するのだが……。

そのさなかの安政5年(1858)7月8日、閲兵しているときに発病。8日後の16日に急死してしまう。

死因は、当時、流行していたコレラとされているが、まだ在世中だった父斉興と弟久光一派による毒殺ではないかという見方もある。

「お由羅騒動」のとき、藩が取り潰されるくらいなら、嫡男斉彬でさえ粛清しかねなかったのだ。斉興が疑われても仕方がない。だが翌年には、斉興もその生涯を閉じているため、まさに「死人に口なし」だった。

「お由羅騒動」は、ずっと薩摩藩内にくすぶりつづけていたのだ。

だが当の斉彬は、冷静だった。また「お由羅騒動」を起こしてはならない、藩主後継問題を起こしてはならない、と。

斉彬は、こう遺言する。

「わが子哲丸が幼少なので、久光の子忠徳(のちの忠義)を後継者とすること」「久光を忠徳の後見人とすること」「自分の娘を忠徳の正室に入れること」「わが子哲丸を2人の養子にすること」。

斉彬派と久光派が対立しない折衷案というべき遺言だった。