巨星、墜つ――。2020年2月11日に逝去した野村克也氏は、生前、明智光秀に共感し、その凄みと弱みを語っていた。稀代の智将から見た、弱者、リーダーとしての光秀とは。かけがえのない言葉に耳を傾けよう。

私も光秀も貧しさと向き合った

英傑ではあったが、英雄にはなれなかった男、それが明智光秀である。

野球評論家。1935年、京都府生まれ。54年、プロ野球の南海に入団。70年からは選手兼任監督。その後、選手としてロッテ、西武に移籍し45歳で現役引退。ヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任。野球評論家としても活躍。2020年2月11日、虚血性心不全により死去。
野村克也●野球評論家。1935年生まれ。54年、プロ野球の南海に入団。70年からは選手兼任監督。その後、選手としてロッテ、西武に移籍し45歳で現役引退。ヤクルト、阪神、楽天で監督を歴任。野球評論家としても活躍。2020年2月11日、虚血性心不全により死去。

光秀の前半生は史料でうかがい知ることができず、その多くは謎に包まれている。歴史の表舞台に登場するのは、信長の家臣となる永禄11(1568)年で、光秀41歳のときだった。

若き日の光秀は流浪の日々を過ごし、貧困にあえいでいた時期もあったと聞く。美濃国の守護・土岐氏の一族と言われる明智氏のもとに生まれたとされるが、それさえも定かではない。光秀が29歳の頃に美濃国守護代・斎藤義龍の侵攻により明智城が陥落したので、その際に美濃を逃れたという。

美濃国では名門と言われている土岐氏の末裔として高い教養を身につけた光秀は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えたが、将軍・義輝は松永久秀に攻められ闘死してしまう。主君を失った光秀は浪人となり、各地を転々とした。『當代記』という歴史書によると、朝夕の食事にも事欠く貧しい生活が何年も続いたというのである。