父の教えてくれた絶対船酔いしないコツ

昭和26(1951)年、僕はアメリカへ留学した。アメリカへの行程は、船だった。「出された食事を全部食べ、毎日、船のデッキを歩けば船酔いはしない」という、ドイツ留学の経験がある父の言いつけに従った。結果は、散々だった。食事をし、部屋に戻っては全部吐く、を繰り返し、3、4日たつと胃がおかしくなった。

アメリカの入国審査の係官が22歳だった僕に「イエス・サー」と丁寧な言葉づかいを崩さなかった。当時、占領状態だった日本に対する、米国の懐の深さを感じた。

福沢諭吉は、独学で英語を勉強し、幕府の遣米使節団の一員として万延元(1860)年、咸臨丸で渡米している。一緒に乗船した勝海舟は、幕府の役人だったが、維新政府にも参画している。福沢諭吉が著した『瘠我慢(やせがまん)の説』という本では、勝に痛烈な非難を浴びせている。勝が、咸臨丸であまりに情けなく船酔いしていたせいだ。そう、福沢諭吉は咸臨丸で一切船酔いしなかったという。

欧米の進んだ制度、銀行、徴兵令、選挙、議会などに触れた諭吉は、日本に近代的な諸制度や洋学の普及が必要であることを痛感する。

横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)や、明治生命(現・明治安田生命)を設立したのは諭吉の門下生の阿部泰蔵という人物。諭吉は、日本銀行の設立にも携わっている。

日本で暮らしていると、自分を日本人であると意識することがほとんどない。しかし、ひとたび外国に出ると、自分が日本人であることを強く意識させられる。留学時代に、僕は日本を愛していると自覚した。だが、それは外国を嫌うということとは違う。愛国者だからこそ、異文化を受け入れられるのだ。

1952年の冬、僕はIBMへ入社した。時を同じくして、コンピュータという得体の知れないものが日本に上陸しようとしていた。

(松山幸二=構成 小原孝博=撮影)