不確実で多様な現実は理論の鋳型に収まらない

1914年を境に世界は「確実性」を失った
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1914年を境に世界は「確実性」を失った

企業は規模の利益を求めて巨大化していく。巨大化した大企業が支配する分野では、もはや自由競争の原理は機能しない。企業は政府の中で力をふるい、政府を通じて自己の権力を行使する。企業は価格を管理し、消費者はそれに従うほかない。

それでは大企業を動かすのは誰か。それは高度な知識を持った専門家集団(テクノストラクチャー)である。ビジネススクールで学びMBAを取得した経営者、博士号を持つ研究開発者、彼らこそが企業の実質的な担い手なのだ。シュンペーターは『資本主義・社会主義・民主主義』で、資本主義は官僚的な巨大企業の問題を克服するためにある種の社会主義へ移行せざるをえないと説いたが、テクノストラクチャーはシュンペーターのいう社会主義の企業版である。

『大暴落1929』でガルブレイスは、1930年代の大恐慌の原因の一つに、持ち株会社と投資信託の存在を挙げている。レバレッジに依拠するこれらの企業形態は株価の大暴落によって逆レバレッジの作用を受けるからである。これは今回の世界金融危機とよく似ている。高度な金融工学は債権と債務の複雑な連鎖をつくり出し、鎖の一つの輪が壊れると、全体が破綻をきたすという構造である。カネがカネを生む金融資本主義はバブルをもたらし、その崩壊は実体経済に巨大な悪影響を及ぼす。

「制度学派」のヴェブレンはガルブレイスより半世紀前に、すでにこの事実を指摘していた。ヴェブレンによれば、現代の資本主義はモノによってモノをつくる産業(インダストリー)から、カネによってカネをつくる営利企業(ビジネス)へ移行している。人々の欲求はすでに飽和したとさえ彼は言っている。モノの希少性の上に構築された経済理論、このような理論のなんと浮世離れしていることか。ヴェブレンの経済学批判は、そのままガルブレイスの経済学批判に通じる。彼の経済学が「新制度学派」と呼ばれるゆえんである。

いま最も優秀なテクノストラクチャーが集まる場所はウォール街だ。ハーバードやMITを出た秀才たちがウォール街を目ざし、彼らは若くして巨万の富を得る。フォードやGMが産業資本主義の典型的な企業だとしたら、ゴールドマン・サックスやモルガン・スタンレーは金融資本主義の典型的企業である。公益への奉仕を考えず、強欲のままにひたすら突き進む市場主義が「ゆたかな社会」を築き上げるとは到底いえない。

『不確実性の時代』が説いているのは、複雑な現実を理論の鋳型にはめ込むなということである。

融通のきかない理論に多様で不確実な現実が収まるわけがない。ヴェブレン、ケインズ、ガルブレイスといった経済学者はこのことをよくわきまえていた。彼らは優れた医者のように、微かな時代の変化の中に地殻変動の新たな兆候を見、それをもとに資本主義の新しい理論をつくろうとした。新自由主義者はその反対だ。「構造改革」は医療、教育、福祉……すべてを市場で解決できると考えて頓挫した。『不確実性の時代』が教えるのは、経済学にできることは高々、対症療法にすぎず、理論と現実の関係を転倒させてはならない、ということである。

※すべて雑誌掲載当時

(構成=プレジデント編集部)