そのころに比べれば会社が大きくなりましたので、ある程度の役割は決めています。ただし、一人二役は必ずみんなでやろうと。私はこの仕事しかしない、という縦割りになっちゃうと、やっぱりコストもかかります。本社の定休日は金曜日で、週末は、みんな店に出ます。私も日曜祝日は必ず店に出ています」

1875人の社員を擁し、東証一部上場企業となったいまも、社長が毎週、どこかの店頭に販売員として立っている。それがABCマートという会社である。

野口氏には、いくつもの接客の極意がある。客に2つのサイズでの試し履きを求められたとき、必ず大きいサイズのほうから先に、紐を緩めた状態で勧めることにしている。足をぎゅうぎゅうと押し込まなければならない時点で少なからず購買意欲を殺がれる客の心理を見越してのことである。商品を見定めている客には、面と向かって声をかけるのではなく、さり気なく一言二言、その靴のセールスポイントを伝える。逆に、客から呼ばれたら、礼を失することのないよう、必ず身体の正面で相対して向き合う。

「販売や接客のマニュアルはどうなっているんですかとよく訊かれるんですが、ほんとうにないんですよ。マニュアルにのっとってできる人よりも、ちゃんと人と対話して口コミで仕事を覚えていく人のほうが、やっぱり強いと思いますしね。僕もそうだったんです。教科書を開く勉強は苦手だったんですけど、学生時代のアルバイトでの実践は得意でした。とくに活字離れの時代でもありますし。

接客では、お客様のニーズを把握することがいちばん重要です。接客したり、試し履きをしていただいたりしているときに、お客様は、その価格帯の靴が欲しいのか、そのブランドが好きなのか、あるいはその色がすごく気に入ったのかと、訊き出すこともなく感じるということ。それを感じられなければ、お客様に次の提案ができませんから。ほんとうに売れる人になってくると、頭の中に膨大な量の在庫数が全部入っている。お客様と対話できるほんの一瞬に、過去の自分の経験値に基づいて的確なご提案ができます。

うちのような職種でいいますと、一発屋みたいに大きいことをどーんとやろうと考えるよりも、こつこつと小さな改善をたくさんやっている人のほうが伸びます。実際、大きな策を打ってもそれが響かないのが、いまのように景気が悪いときですから。近道を探していると時間ばかりがたってしまうので、目の前の小さな改善をこつこつとやる。その改善できた数が問われてくると思うんです」

(若杉憲司=撮影)