一方で、日本全体の賃金の総額は変わらない、つまり製造拠点の海外移転といった産業空洞化が起こらないという前提で最低賃金をアップする場合、真っ先にしわ寄せを受けるのが正社員です。たとえば、お父さんが40歳の正社員で、専業主婦で36歳の妻と、育ち盛りの子供2人がいる家庭を想像してみてください。家のローンはある、子供の教育費もかかる、年老いた親の面倒も見なければならない、お父さんの給料が下げられたら、この家庭は生活必需品の消費量は変わらないとして、それ以外の高級品や不要不急のものの購入を手控えるはずです。

そうすると困るのが百貨店です。生活必需品を百貨店に買いにいく人はいません。全国の百貨店売上高は、景気後退の影響をもろに受け、20カ月も連続でマイナスが続いていますから、まさに弱り目にたたり目、最低賃金の大幅な底上げで高級品のさらなる消費不況が起こり、百貨店の窮状はさらに深刻になるでしょう。

この政策のおかしさはそれに留まりません。最低賃金を上げることが、果たしてワーキング・プアの人たちを救うことになるのかという、根本的な疑問もあるのです。

時給1000円未満で働いており、この最低賃金アップ策で恩恵を受ける人というのはどんな人たちでしょうか。おそらく地方の中小工場、あるいはスーパーやコンビニなどの商店で働いている人たちであり、その多くが主婦のパートや学生アルバイトでしょう。主婦のパートや学生アルバイトの場合、彼らの多くは夫の給料や親からの仕送り、あるいは親と同居で暮らし、家計の足しや小遣い稼ぎのために、こうした仕事に従事している人たちであり、国の政策として賃金をアップさせなければならないほど、困窮しているわけではないのです。時給1000円というのは、1日8000円、月に17万円程度の給与です。年収では200万円程度です(主婦のパートの場合、夫の扶養家族となるために、年間102 万円の所得の範囲で働いる方も少なくありません)。

ワーキング・プアと呼ばれる人たちは、むしろ製造業派遣や工場の期間工などで働いている人たちであり、そういう現場は、さすがに時給1000円未満は少ないはずです。

こう言うと、「いやいや、政策の意図はそこにはない。最低賃金のアップは生活保護給付との乖離を埋めるためなんだ。現行の最低賃金で働き続けて1月に稼げるお金の総額より、生活保護のお金のほうが多い。そこを是正するためで……」と、解説する人がいます。

本当でしょうか? 生活保護と法定最低賃金を同じ次元で論じるから、このような議論になってしまうわけです。そこは「分けて」考えるべきです。

日本国民として、憲法二五条で定められた「生存権=健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するための制度が生活保護です。生活保護は、いわば人権問題です。一方で、最低賃金をどうするか、というのは経済問題であり、一国の国際競争力と密接に関係しているのです。日本が鎖国をしているなら国内問題として最低賃金を自由に議論していいのですが、天然資源もないこの国は、付加価値の高い製品を海外に輸出して食べていかなければならないわけですから、企業に命じて強制的に賃金を上げさせるというのはどう考えてもおかしいことだと思います。

人権の保護をどうするのか、企業経営をどう成り立たせるか。この2つはそもそも別問題であるのに、それを一緒くたにして考えるから訳がわからなくなるのです。最低賃金で働いている人がフルに働いても、生活保護でもらうお金の水準まで稼げないのが現実なら、むしろその人たちに賃金との差額を国が生活保護として与えるべきです。

低所得者層の問題を放置しておいてよいなどとは思いませんが、長期的な戦略もなく、ただ経営の自由度を殺ぎ、企業ばかりに負担を強いるような政策は、結局は企業をも弱らせ、そこで働く大半の国民の生活を脅かすことにもなりかねません。

ある経営者がこう言っていました。「企業というのは適正な利潤が出たら、起きている問題の95%は解決する」と。国もそうです。国全体が適正に稼げるようになったら、ほとんどの問題は解決するのです。

※この連載では、プレジデント社の新刊『小宮一慶の「深掘り」政経塾』(12月14日発売)のエッセンスを全8回でお届けします。

連載内容:COP15の背後に渦巻くドロドロの駆け引き/倒産に至る道:JALとダイエーの共通点/最低賃金を上げると百貨店の客が激減する/消費税「一本化」で財政と景気問題は解決する/景気が回復で「大ダメージ」を受ける日本/なぜ医療の「業界内格差」は放置されるのか/タクシー業界に「市場原理」が効かない理由/今もって「移民法」さえない日本の行く末

(撮影=小倉和徳)