幕末の薩摩の著名人といえば、藩主島津斉彬、藩父(藩主忠義の父)島津久光をのぞけば西郷隆盛と大久保利通だろう。小松帯刀の名を挙げる人はいない。

もっとも、いまは、NHK大河ドラマ『篤姫』の影響、瑛太の演技のおかげで知名度もあがったはずだ。

「小松帯刀」が一般的だが、苗字と諱を並べると「小松清廉」となる。

小松は、天保6年(1835)生まれだから、大久保より5つ、西郷より8つ年下。

もともと「小松」という苗字ではなかった。「一所持ち」と呼ばれる私領主、肝付兼善の3男に生まれ、幼名は尚五郎といった。母親は島津久貫の娘だ。

尚五郎は、のち同じ「一所持ち」の小松清猷の妹の婿養子となり、小松家を継ぐことになる。

小松の実家肝付家のとなりが、篤姫の実家今和泉島津家の私領だったため、大河ドラマでも小松帯刀にスポットがあたることになったわけだ。しかも小松帯刀も篤姫も天保6年生まれ。小松帯刀は旧暦の10月14日、篤姫は旧暦の12月19日が誕生日。2ヶ月早く生まれた幼なじみだった。

小松は、藩主島津斉彬の小姓、当番頭になったのち、斉彬の急死後は、藩主忠義の父久光の側近となって公武合体活動に参加。久光の挙兵上京に同行した。この上京中に起きたのが「寺田屋事件」と「生麦事件」だ。

久光の側詰兼側役、さらに江戸家老、国家老に昇進したとき、まだ弱冠28歳だったというから、いかに優秀な人材だったかがわかる。

小松がもっとも活躍したのは禁門の変(蛤御門の変)だった。小松は、藩主名代として西郷とともに薩摩軍を指揮する立場にあった。