孫子の教えで重要なのは「戦わずして勝つ」ことではない。「戦わずして負けない」ことだ――。上司と部下の問題に応用し、乱世に生き残る術を検証する。

孫子には、やや気の長い戦術もある。

少なければすなわちよくこれを逃れ、若からざればすなわちこれを避く

劣勢の兵力であれば退却し、勝算がなければ戦わない――。

「『逃げるか、戦わないための算段をしなさい』といっている。先の《必ず全きを以って天下に争う》という言葉を逆から読めば意味がわかります。こちらが強い場合は無傷のまま相手を味方に引き入れてしまい、こちらが弱い場合は、いったん相手の傘下に入ったり屈服したりして同盟を結ぶということです」(守屋氏)

いけ好かない上司ではあっても、ひとまず恭順の意を示しながら懐に入って、雌伏の時を耐え忍ぶ。サラリーマンの世界は、不況であろうがなかろうが縦社会である。いくら自分が有能で実績を積み上げていても、上司に評価され、取り立てられなければ出世や昇進には結びつかない。腐(くさ)して一匹狼を気取る前に、たとえ面従腹背ではあっても上司に取り入っていれば、いつかは自分にも好機が到来しよう。失敗やアクシデントで上司が自滅したり、失脚の憂き目に遭ったりすれば、自分にお鉢が回ってくることもある。孫子を味読すると、綺麗事では済まない人間社会の裏表が透けて見えてくる。

守屋氏は、「ビジネス社会では負けても生き返ることができる。負けるほど経験を積んで勉強にもなる――そう考えたらいいのではないでしょうか」と語る。

戦う甲斐さえないのは、決断力のない「決められない上司」。ことによると、中途半端に上司面(づら)をしているだけに「やる気なし上司」よりも厄介で手ごわい。

智者の慮は必ず利害に雑う

智者は必ず利得と損失の両面から物事を思考する――。

勝ちすぎることなく、少し負けておくほうが長い目で見ても得策なのではないか、と発想を転換してみる。これもまた、落としどころを考えておく、という先述の警句と似通っている。

「決められない上司」について、古川氏は、「部下からやんわりと期限を区切って迫ってあげるしかありません」という。

「『今週中に』『来週までに』と、自分のほうから期限を区切って上司に決断を求めましょう。ただし、『どうしましょうか』『決めてください』と詰め寄るのはだめ。『A、B、Cと3つの案のうち、私はAがいいと思います』と自分の意思を伝えて、その理由も明確にすることです」

それでも意思決定できず、ならばと上司自らが同僚や上役に相談しに行くようであれば、まだ望みはあるといえる。

守屋氏は「戦いは、自分にその気がなくても相手が始めれば始まってしまう。身を守る術(すべ)は持っておかねば」と結んだ。

サラリーマン人生は、出世競争である前に生存競争である。長く険しい道中には、兵法書も糧となるかもしれない。

守屋 淳●中国古典研究家

1965年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。大手書店勤務を経て、現在、中国文学の翻訳・著述家として活躍。『孫子・戦略・クラウゼヴィッツ』『最強の孫子』『活かす論語』『孫子とビジネス戦略』『逃げる「孫子」』『中国古典の名言録(共著)』など著書多数。


古川裕倫●経営コンサルタント

1954年生まれ。早稲田大学商学部卒業後、三井物産に入社し、23年間勤務。2000年、ホリプロに転じ、取締役執行役員に。07年、自身の会社・多久案を設立し、経営コンサルティングなどを手がける。『他社から引き抜かれる社員になれ!』『できる人はすぐ決める!』など著書多数。