[3] 相互の合意に達する

合意に対する長期的な満足感は、その明文化された内容だけでなく、どのように合意に達したかにも左右されることがある。

最近の研究では、人々に論理的に決定させることで、彼らをより満足のゆく結果に導くことができるという考えを否定する結果が出ている。ある実験で、大学生に寮の自分の部屋に貼るポスターを選ぶチャンスが与えられた。一部の学生は選んだポスターをそのまま部屋に持ち帰ってもよいとされたが、他の学生は自分がそのポスターを選んだ理由を説明する短い文章を書いてから持ち帰るよう指示された。

選択の理由を書き記すことは2つの驚くべき結果をもたらした。第1に、それは学生たちがモネやゴッホの作品のような芸術的なポスターを選ぶよりも、他愛ない漫画や動物写真のポスターを選ぶ傾向を高めた。第2に、文章を書くという課題によって、自分の実際の好みとは異なる選択をした学生が多くなった。人は自分の好みを説明するよう求められると、1番好きなものではなく1番説明しやすいと思われるものに引き寄せられる傾向があるからだ。モネの絵になぜ引きつけられるのかを説明するよりも、ある漫画をなぜおもしろいと思うのかを説明するほうが簡単だと、大半が思うのである。

これは、人々に意思決定のプロセスを過度に論証させたら逆効果になることがある、ということかもしれない。同意を得るということは、必ずしも相手にその理由を問いただしたり、説得して自分の意見に賛同させたりしなければならないということではない。

シュワルツはまた、決定を下す際に自分自身に(そして相手にも)「逃げ道」を与えてはならないと言う。われわれは選択の幅を広くしておくことが好きなので、たとえば別荘を買うために払い戻し可能な手付金を払うほうが、解約不可能な約束をするよりも理論上はわれわれを満足させてくれるはずだ。だが実際には、得てして逆になる。払い戻しを受けるという選択肢があると、われわれは引き続き不動産広告を読み漁り、もとの選択に疑問を持つ理由を見つけ出す可能性がある。

「決定が最終的なものである場合は、人間は自分が行った選択が代替案より望ましいという感覚を強めてくれる、さまざまな心理的プロセスに熱中するものだ」と、シュワルツは前掲書で述べている。

(翻訳=ディプロマット)