設立満15年に社長退任を決意

<strong>牛尾治朗</strong> うしお・じろう●1931年、兵庫県生まれ。53年東京大学法学部政治学科卒業、東京銀行入行。カリフォルニア大学大学院留学を経て、64年ウシオ電機を設立し社長に就任。79年会長。日本青年会議所会頭、経済同友会代表幹事、内閣府経済財政諮問会議議員、社会経済生産性本部会長などを歴任。
ウシオ電機会長 牛尾治朗 うしお・じろう●1931年、兵庫県生まれ。53年東京大学法学部政治学科卒業、東京銀行入行。カリフォルニア大学大学院留学を経て、64年ウシオ電機を設立し社長に就任。79年会長。日本青年会議所会頭、経済同友会代表幹事、内閣府経済財政諮問会議議員、社会経済生産性本部会長などを歴任。

1979年4月1日、「執行と経営を分離する」として会長・社長制を導入、社長を退任して会長・CEO(最高経営責任者)に就任した。複雑さを増す時代に対応するため、短期的な会社運営は社長、会社の将来にかかわることについては会長がみる体制とする。48歳。会社設立から満15年での決断だった。

会社を設立したころは、毎月1回あった朝礼で、リンゴ箱の上に立って指示を出した。以後、すべての会議を主導し、文字通りワンマン経営が続く。「意思決定が早くないと、中小企業は生きていけない」との思いと自信に、あふれていた。

初めて「すべてを独りで判断していては危ない」と思わせたのが、73年秋に起きた第一次石油危機だった。2年余り前にあったニクソンショック後に、為替相場が固定制から変動制に移行して円高・ドル安が進んだ。日本の輸出産業は大打撃を受けたが、ウシオ電機の製品は独自で原材料費が低く、値上げなどしなくてすむ競争力があった。その体験と高度経済成長後の日本の成長力への確信が、判断を誤らせた。

原油価格が1バレル=1ドル50セント前後から4倍にはね上がったとき、多少の値上げをして、「これで、しのげる」と明言する。もう一段の設備投資も考えるほど、楽観していた。だが、コスト面での分析はその通りでも、大きな見落としがあった。狂乱物価は日本中の需要を冷やし、74年はマイナス成長にまで落ち込む。世界の総需要も2~3割抑え込み、売り上げが大きく減った。75年9月期、初の減収減益を経験する。

当時、開発も生産も販売も、財務以外はすべて陣頭指揮をしていた。それでは、判断は速くできるが、目前の仕事しかみえない。「もう、これでは無理な時代だ」と猛省する。

だが、石油危機がもたらした構造不況は、予想をはるかに上回る深刻さで、製品群の見直しにも追い込まれる。取引が拡大するにつれ、顧客の細かいニーズに応じてきたため、ハロゲンランプだけで3000種、クセノンランプでも500種と、すごく増えていた。当然、生産効率は上がらず、在庫も増える。石油危機が、この弱点を浮き彫りにした。

74年から品種の統廃合を進め、ハロゲン分野は2000種、クセノン分野は200種に絞り込む。営業部隊から「製品がなくなると、お客が困る」と苦情が出た。でも、「うちが生き残るには、これしかない。お客さまにはまず我が社にある代替品を提案し、心から詫びてほしい。代替品がなければ、他社の製品を勧めてもいい。ご迷惑を最小限にとどめるように、努力してほしい」と説いた。自社の売り上げよりも顧客優先。それが、とるべき道だと確信していた。

「顧事之是非何如耳。至於成敗天也」(事の是非いかんを顧みるのみ。成敗(せいばい)に至りては天なり)――事に臨んでは、それが是であるか非であるかを、ひたすら考えればいい。それが成功するか失敗するかは、運命だから、考えても仕方ない、との意味だ。中国・南宋の朱熹がまとめた『宋名臣言行録』にある言葉で、物事は道理にかなっているか否かのみが重要で、それがうまくいくかどうか思い悩む必要はない、と説く。部品の種類を減らしてお客が困れば、他社の製品を勧めて迷惑を防ぐ。自社の売り上げが減っても、もっと大切なものがある。牛尾流の選択は、『宋名臣言行録』の言葉に重なる。

75年10月、「アタック3P計画」と名付けた長期計画をスタートさせた。「3P」とは「Per Head、Per Cap ital、Per System」の頭文字。一人当たりの利益、投下資本当たりの効率、部や課など組織効率の3つの向上を目指す標語だ。言い換えれば、自己責任体制と管理体制を強化する、経営の質的改善の追究だ。

1931年2月、兵庫県姫路市に生まれる。父は、祖父が手がけた銀行や電力などの事業を受け継いでいた。戦時下に電力会社は分割され、戦後は公職追放となる。復帰後は、文人のような日々を送った。8歳のときに神戸市舞子へ転居し、旧制三高(現・京大)を経て東大法学部政治学科へ進む。国際的な仕事をしたいとの思いから、東京銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に就職した。