各界で第一号の女性たちを取り上げた『日本の天井』。髙島屋で役員に抜擢され、日本初の上場企業の女性役員となった石原一子さんが打ち破ってきた天井はどんなものだったか。女性初の次長、部長、支店次長を経験し、取締役となった石原さんが見た男社会の醜さとは――。

※本稿は石井妙子『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』(角川書店)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/metamorworks)
石原一子 大正13(1924)年、中国・大連生まれ。東京女子大学卒業後、一橋大学に初の女子学生として入学。卒業後、高島屋に入社。昭和54(1979)年、女性初の役員となる。高島屋だけでなく、一部上場企業における初めての女性役員誕生の瞬間であった。その後、常務取締役に就任。経済同友会にも初の女性会員として迎えられる。総理府婦人問題企画推進有識者会議委員、大蔵省、経済企画庁、建設省、日本高速道路公団の各諮問委員など公職も務める。ハーバードビジネススクールAMPコース修了。昭和62(1987)年、高島屋を退社後は、東邦生命保険相互会社取締役、一橋大学非常勤講師。地元、東京都国立市で景観を守るための市民運動にも携わった。旧姓は土倉。

キャリアウーマンの星へ

昭和54(1979)年、「フランス展」の仕入れを任されることになり、石原はパリに出張した。すると、東京にいる部下から電話が入り、「株主総会で石原さんが、取締役になることが決まったようで大騒ぎになっています」と告げられた。

空港に帰り着くと石原は、取材陣に取り囲まれた。確かに石原は入社した時から、役員になることを目指してきた。だが、いざなってみると実感が湧かなかった。女性初の快挙であると、社内以上に世間がうち騒いだ。

「私は仕事が好きで誰よりも一生懸命働き、結果を残した。だから順当に出世していった。それだけのことだけれど、こういった当たり前のことがニュースになるほどだったんです。当時の日本は。私は確かに働く女としてはトップランナーだった。だから、先頭にいる者の責任も感じていた」

昭和54年5月24日、取締役広報担当室長に就任。54歳だった。女性初の次長、部長、支店次長を経験し、ついに取締役へ。以前からある役員ポストにつけるのではなく、それまでになかった広報担当というポストを新設して、その初代役員に石原をあてる恰好だった。

高島屋が創立されて以来、初の女性役員であるばかりでなく、一部上場されている日本企業全体を見渡しても、女性が一社員として入社し、重役になった初めての事例であり、石原のもとには取材が殺到した。「キャリアウーマンの星」としていっそう、注目され、華やかな話題を振りまいた。一方、社内には、女の役員誕生を苦々しく思う男たちが、少なからずいた。

男性と対等に付き合うため、ゴルフを始める

役員になった石原は、これまで以上に男性の心理を知る必要があると考え、男性たちと対等に付き合えるようにとゴルフを始めた。男社会の中に、仲間として受け入れられることが大事だと思ったからだ。また、この頃、アメリカでキャリアウーマンの指南書としてベストセラーになった話題作の編訳を石原は手がけた。『男のように考え レディのようにふるまい 犬のごとく働け』(石原一子編訳 デレク・A・ニュートン)だ。

「原書を一読して、『ああ、私が会社に入った頃に、こういう本を読んでいれば苦労をしないで済んだのに』と思った。男のように考え、とは男のほうが判断力はある、という意味ではないのよ。男社会である以上、男の考え方というのを知っておいたほうがいい、という意味合いで使われた言葉。

確かにアメリカでも日本でも、企業社会では男性がルールを決め、男性がスコアをつける。そのルールや基準をわかっていないと、うまくやっていけない。ルールを知っているのと、知らないのとでは大違いです。私は男だけの社会に入って試行錯誤の連続だった。男の上司のものの考え方がわからなかったし、あと、男の社員同士の独特の紐帯も理解できないで、ずいぶんと回り道をした」