千利休(せんの・りきゅう)
1522~91年。和泉の国、堺の商家に生まれる。若年から茶道に親しみ、武野紹鴎などに師事した。信長の茶頭となった後、秀吉に仕える。北野大茶湯に関わるなど、筆頭茶頭として、重用されるも、秀吉の命で京都にて切腹。
<strong>作家 山本兼一</strong>●1956年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業後、出版社勤務、フリーランスのライターを経て作家になる。99年『弾正の鷹』で小説NON短編時代小説賞を受賞。2004年『火天の城』で松本清張賞を受賞。『利休にたずねよ』で第140回直木賞受賞。その他の著作に、『雷神の筒』『いっしん虎徹』などがある。
作家 山本兼一
1956年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業後、出版社勤務、フリーランスのライターを経て作家になる。99年『弾正の鷹』で小説NON短編時代小説賞を受賞。2004年『火天の城』で松本清張賞を受賞。『利休にたずねよ』で第140回直木賞受賞。その他の著作に、『雷神の筒』『いっしん虎徹』などがある。

臨済宗大徳寺派の大本山である京都大徳寺は千利休ゆかりの寺院として知られています。二層からなる山門の上層「金毛閣」は参禅していた利休の寄進で完成し、大徳寺は寄進の顕彰として利休の木像を安置しました。しかし、これが天下人のくぐる山門を見下ろすのは不敬という言いがかりのような咎の種になり、利休は秀吉から切腹を言い渡されます。

現在は江戸時代に復元した複製の像が安置されています。取材で大徳寺の山門に上げていただいたときに拝見して、長谷川等伯の巨大な竜の天井画とともに実に印象に残りました。等身大に作られたそうですが、大変大きい。伝えられているように大柄な人だったのでしょう。

私は大徳寺の近くで生まれ育ちました。父親が学生時代に大徳寺の塔頭に下宿していたし、私も子供の頃は境内で遊び回った。利休にまつわる話もよく聞かされていました。作家になり、戦国期や幕末の職人を主人公にした小説を書き続ける中で、日本史のなかの美の巨人である利休をいつか書きたいという気持ちが温まってきたのは、私にとって自然な流れだったように思います。

しかし、利休の美学を描くとなれば茶の湯の世界に触れなければ始まりません。執筆の1年ほど前、大徳寺のある塔頭でお茶のお稽古会に参加させてもらいました。最初は本当に驚かされることばかり。こんな凄まじい美学を考えた人は殺されてもしょうがないと思いました。

茶席では亭主が茶碗と棗(茶を入れる器)と水指を運び込みます。最初に水指を置いて、次いで棗と茶碗を水指の前に置き合わせます。このとき、3つの道具の中心線を結んだ形が二等辺三角形になるように、茶碗と棗を畳三目離さないといけません。お点前を始めるときには、炉に向き直った膝前に置き直し、棗と茶筅を五目離して置きます。帛ふく紗さを捌さばくのは左膝の前。柄杓なら竹の節が真ん中にくるよう持つ位置が決まっていて、間違ったら「もうちょっと下」と直される。そういう決まりごとがいくつもあります。

利休は道具のしつらえの美しさ、それから道具を扱う所作の美しさの黄金律というものを見抜いていて、そういう決まりごとにしたのでしょう。畳の目一つで、点前の席の空気が凛と引き締まる。張り詰めすぎず、さりとて窮屈ということもない絶妙な塩梅になる。「別に四目でもいいじゃないか」と思うのですが、やはり三目であると落ち着く。悔しいことに、利休が言った通りにしたほうが美しい。

絶対音感ならぬ、「絶対美感」のようなものが利休には備わっていたのではないかと私は思います。

たとえば同時代の茶人でも高弟の古田織部などは師の侘び茶とは一線を画して、武家らしい、大胆で雄渾な茶を求めました。どこか織部自身を表出しているような茶席で、どこか近代の美術、近代絵画にも通じる自己表現が感じられます。

しかし、利休のお茶は決して自己表現ではない。人の中に共通している美意識の黄金率、それを見出して形にしたのが利休ではないかと思うのです。

(構成=小川 剛 撮影=浮田輝雄)