近ごろ、石田三成の人気が高いという。中学生のころからの三成好きの私としては嬉しいことだが、なぜこれまでそんなに人気がなかったのか、不思議に思う。私などにとっては、豊臣秀吉亡きあと、天下の権を掌握しようとするタヌキ親爺・徳川家康に、豊臣家を守るべく、遥かに大名としては少ない石高ながら敢然と立ち向かい、実際は戦力において勝り、半ば勝てた戦ながら、小早川秀秋らの裏切りと、吉川広家らが動かなかったことによって敗北を喫し、逃げのびることもできずに捕えられて斬首された、義に生きた悲劇の武将であり、日本人には判官びいきといって、源九郎義経のような敗者に同情する気風があるというのに、なぜか三成ばかりはあまり人気がなく、むしろ家臣の猛将・島左近のほうが人気があるくらいだった。

実は明治末期に、福沢諭吉の一族の朝吹英二という実業家が、石田三成復権のために活動し、歴史学者の三上参次らに委嘱して、渡辺世祐が『稿本石田三成』として上梓したものが、三成復権の端緒であった。これを見ると、徳川幕府が、当然のごとく三成を悪く言ってきたことが分かる。三成自身が天下を奪おうとしていたのだとか、秀吉の養子だった関白秀次を無残な死に追いやり、朝鮮出兵をそそのかしたのも三成だ、とされたのである。また大坂城にあった浅井茶々(淀君)もまた、徳川時代には悪女として描かれ、明治になっても坪内逍遥作の歌舞伎で、狂気じみた、道理の分からない女として描かれ、そのイメージが長らく流布していた。その分、豊臣家に殉じた武将として圧倒的に人気があったのは、大坂の陣に活躍した真田幸村のほうであった。

確かに、朝鮮出兵などは、三成が抑えきれなかった秀吉の暴挙で、責任なしとはいえないが、関ヶ原の挙兵は、やはり豊臣家の存続を願い、家康の擡頭を抑えるための義挙だったといえるだろう。谷崎潤一郎は東京の生まれだが、関東大震災後、関西に移住し、自分の母方の先祖が近江の出身だと知って、三成びいきになったと書いている。松子夫人はお茶々びいきだったというが、するとあの『春琴抄』の、近江から来た佐助と、大阪の驕慢な美女春琴の物語は、三成と茶々を念頭に置いて書かれたものではないかと、私は考えている。

三成といえば、秀吉没後、三成を憎む加藤清正ら武断派の武将が暗殺を企て、敵である二条城の徳川家康の屋敷に逃げ込んだという逸話が有名だが、これは間違いで、二条城内の自分の屋敷に入ったもののようだ(笠谷和比古『関ヶ原合戦』)。ほかにも、関ヶ原の戦いの時から下痢をしていて、捕えられて斬首されるまでこれが治らず、いざ斬首される際に、喉が渇いたと言い、柿を差しだされたが、それは腹に悪いと言って断り、武士は最期まで命を大切にするものだ、と答えたといった伝説が知られている。

あるいは最近では、三成と茶々を恋愛関係で描くことが多いが、昔は、茶々の不義密通の相手としては、大野修理大夫ということになっていた。もっともかつても、秀頼は実は三成の子であったといった説が唱えられたこともある。

近年、三成の人気が上昇しているのは、大河ドラマで、江守徹や中村橋之助、小栗旬などが三成を演じて、義に殉じた姿がたびたび描かれたせいもあろう。最近では「勝ち組」「負け組」など、太平洋敗戦時のブラジル日系人の間での用語を転用して、人の生を「勝ち負け」で決めるようなことがはやっているが、人間はもちろん常に勝てるわけではない。負けた時の人の生き方を教えてくれるものとして、私は三成を、最も好きな日本史上の人物の一人に数えているのである。