ピーター・バラカン

1951年、イギリス生まれ。高校までラテン語と古代ギリシャ語を学び、大学は日本語学科のあるロンドン大学へ。卒業後、週給20~30ポンドのレコードショップの店員として働いていたとき、英語のネーティブ・スピーカーを求める日本の音楽出版社、シンコー・ミュージックの求人に応じて74年に来日。国際部で7年間勤務を経て、「CBSドキュメント」などのキャスターに就任。『魂(ソウル)のゆくえ』『ブラック・ミュージック』など著書多数。現在、InterFM の「BARAKAN MORNING」(月~金曜7:00~)などに出演中。


 

ザーザー降りの羽田空港に初めて降り立った36年前のことを今もよく覚えています。幸運にも日本の音楽出版社に社員採用され、ロンドンから来た僕を待ち受けていたのは、梅雨の異様な湿気でした。車窓から見える、産業通り沿いのずぶ濡れの工場群にはひどく滅入りました。「日本になんて来なければよかった」ってね。

ところがこの日、会社の人と訪れた神田の蕎麦屋がそんな憂鬱を見事晴らしてくれたんです。日本で最初の食事は、人生初の蕎麦。天ぷらそばをすすりながら「これが、蕎麦というものなのか」と感激しました。

実は、日本語を学んだロンドン大学時代や、レコード店での貧乏バイト時代に、今で言うマクロビオティックが一部で流行っていました。それで僕も穀物の蕎麦の実を鍋で1時間ぐらいコトコト炊いて食べていました。胡麻塩かけて。ナッツのような香ばしい風味でしたね。でも、ちゃんと麺にした蕎麦を食べたのは、これが初めてだったんです。

あとで知ったのだけれど、あの蕎麦屋(「神田まつや」)は、僕が敬愛する池波正太郎さんが晩年通い詰めた老舗だったのです。

蕎麦屋へ入ったからには焼き海苔や板わさなどを肴に軽く燗酒を1、2本飲み、しかるのちにパッと蕎麦を手繰って……。『男の作法』に描かれた粋な流儀に異邦人の僕も完全に魅了されてしまいました。

そう言えば、向田邦子さん考案の手料理にも、それに似た食の美意識のようなものを感じます。湯通ししたピーマンの千切りと油揚げを合わせた一品、すりおろしたニンジンとしらす干しを胡麻油で炒めた一品。向田さんの料理本は、今ではわが家の“バイブル”になっていますよ。

褒められた話ではないけれど、僕はとても好き嫌いが激しいんです。ソウル・ミュージックを溺愛する半面、ハードロックやジャズのビッグバンドは受け付けません。食べ物は水菜や春菊は好物なのに、キャベツや大根は本当に勘弁してほしい。嫌いの理由は正確には説明できません。

音楽も料理も、理屈ではないですよね。感覚がすべて。快楽と感じることに、昔から僕は弱いみたいです。きっとすごく原始的な脳で生きているのかな(笑)。ここでご紹介するのは、そんな僕のわがままに見事にヒットしたお店です。

「山久」には文句なしにいい日本酒、いい肴、いい蕎麦があります。ベルギーフレンチの「アンビアンス」は和の心が生きた五感を刺激する味が特徴です。共通点は、調理に手間がかかっているけれど仰々しく飾り立てず、素材本来の旨さをそっと提供してくれること。2つの店には、池波さんと向田さんが愛した粋と美意識が込められた料理に通じる何かがある、と僕は思っています。