「学力(の貧困)」がブームになる現代日本

テストによる足切りが行われるので、就活学生も守りに出る。1人で100社以上もエントリーをかける。そうしてエントリーが増えて、企業はまたこのテストを使って足切りに励む。事態は徐々にスパイラルアップする。

学生はエントリー数を増やすとともに、テストの準備をする。その結果、その種のテキストや問題集が本屋さんに山のように積まれることになる。もちろん、面倒見のいい大学は、学生任せにはしない。それ用の問題集や解答集を学内のしかるべきところに揃え、そのための講習も開く。正課の科目に組み込む大学も出てきている。

以上が、若者の「〈学力〉の貧困」問題が、義務教育から大学や企業の採用にまで及んでいる様子だが、その流れは教育界にとどまらない。皆さんのもっと身近なところまで及んでいる。テレビ番組やゲームソフトや出版の世界も、そうだ。小学校で学ぶ国語や算数の問題を出し、それに珍答する若いタレントをダシにして、視聴者の笑いを取るテレビ番組は人気がある。その笑いの中に、「小学校で学ぶようなことも知らない若者が大勢いる」と思う人が増えていく。

まさに「学力(の貧困)」が、現代のテーマとなりブームにもなっている。その中で、「現代の若者には、もっと基礎〈学力〉が必要」という厳しい視線が生まれる。だがしかし、そのブームの中で、いっそう深刻な事態が進んでいる。それはほかでもない、「人前でしゃべらない若者」や「自分から、目の前の現実に積極的にかかわろうとしない若者」が少なくない数いることだ。大学教員は、「とにかくそうした学生は多いし増えている」という。

そうした若者を生み出した理由は様々だ。教育はもちろんその責任を免れない。大量の知識を覚えさせ、そしてそれらの記憶をできるかぎり正確に再現するというやり方は、わが国の伝統的な教育手法だが、とてもではないがいい影響を与えたとは思えない。若者たちは、小さい頃から知識の詰め込みとその確認のための試験というパターンに馴染んだ。

その人の持っている潜在力を花開かせるのが〈教育〉だとすると、このやり方は教育とはいえない。〈訓練〉だ。そして、この〈訓練〉を小さい頃から受けて習熟度を上げた者が、優れた人間として評価を受ける仕組みになっている。

訓練だから、「何のために、この知識を学ぶのか」という説明はない。それを教師に尋ねても、「とにかくおぼえておけ」「いつか役に立つ」「少なくとも、進学するときには不可欠だ」と、理由にもならない理由で説明されるのがおちだ。

教育における「入」と「出」のバランスが取れていないのだ。教育における「入」とは、頭の中に知識を充填する局面。

「出」は逆に、持っている知識を使う局面。教育においては、この入と出のバランスが取れていないといけないのだが、とくに日本の教育は、小学校から大学まで、知識をどう使うかではなく、どう入れ込むかという入偏重。

そうした入偏重、〈訓練〉中心の副作用は小さくない。第一に、自ら何かを学ぶという経験がない。経験がないから、学ぼうとする意欲がそもそも生まれない。第二に、問題に対して独自の答えを探す気がない。答えはすでにどこかにあって、誰かが知っているはずという受け身の意識が強い。答え探しの、間違いや失敗を恐れる。最後に、直面する複雑な現実から、解くべき「問題」をつくり出す力が失われる。問題の背後には必ず答えがあって、それを正確に再現することを何度も何度も訓練されると、その力を失うのも仕方ない。「しゃべらない」「現実にかかわらない」若者は、そうした副作用の表れではないだろうか。

「訓練で、〈学力〉の貧困をなくす」というのは、わかりやすい施策だ。訓練によって、確かにいわれるところの〈学力〉スコアは上がるだろう。だが、落とし穴もある。

訓練は、その目論見とは異なり、「学ぶ意欲の乏しい」「自分独自の答えを探そうとしない」「失敗を恐れる」、そして「現実を切り開く力を喪失した」若者、つまり「しゃべらない」若者をつくり出してしまうリスクを呼び込む。〈学力〉スコアの上昇と引き換えに、そうしたリスクが現実のものになってはたまらない。そこに大きなジレンマがある。その点については、機会を改めたい。