司馬遼太郎が愛した普通の日本人

司馬遼太郎記念館があるのは近鉄線の河内小阪駅と八戸ノ里(やえのさと)駅の中間で、大阪市内からは電車で30分ほどだ。記念館へ向かう道の途中には銭湯があり、手ぬぐいと洗面器を携えた人とすれ違うこともある。大阪のおっちゃんやおばはんが暮らす庶民的な町なのだ。記念館は司馬邸の敷地内と隣接地で構成され、かつて彼が執筆していた書斎も見ることができる。開館は2001年。毎年、3万人の入場者がある。

館内で見るべきものは6万冊と言われる蔵書のうち2万冊を納めた高さ11メートルの大書架だろう。彼は蔵書のほぼすべてを読んだという。何しろ6万冊である。1年間に600冊を読んだとしても、6万冊を読了するには100年かかる。司馬遼太郎は書いた作品も多いが、読んだ本も多い人なのだ。

館長の上村洋行氏はなぜ『坂の上の雲』が今また注目されているのかという私の質問に次のように答えた。

「高度成長期まで、日本人はそれぞれの目標を持っていました。経済に傾斜し、みんな一丸となって努力してきたのです。しかし、バブルという現象につきあたって目標がなくなり、混迷の時代に入った。今はみんなが時代をどう乗り越えていけばいいのか、わからなくなっているのです。何か参考にするべき指針を探しているのです。そういう人たちが司馬遼太郎の作品を手に取っているのかもしれません。『坂の上の雲』を読む人たちは単に明治を懐かしがっているわけではない。健康で、公と私のバランスが取れていた明治期の日本人像を読むことによって、今後の生き方の参考にならないかと思っているのではないでしょうか」

上村氏の言うことは間違ってはいない。『坂の上の雲』を読んで、もう一度ロシアと戦争しよう、と決心する人間は皆無だろう。現在の読者は軍事的な興味で同書を手にするのでなく、本のなかに漂っている明治の日本人のすがすがしさを感じ取りたいと思っているのではないか。

記念館を出て、私はあらためて『坂の上の雲』のページを繰った。そこには明治という時代が持つ明るさと暗さがちゃんと書いてある。明るさのひとつは江戸時代の身分制度が崩壊したことだろう。主人公の秋山兄弟は下級武士の生まれだから、江戸時代が続いていたら、松山の片隅に暮らし、そのまま死んでいったに違いない。明治という時代になったことで、ふたりは出世するチャンスを得た。金のなかったふたりは日本陸軍、海軍に入り、栄達したのである。明治はふたりに限らず多くの若者を身分制度から解き放った。

だが、明治は決して明るいだけの時代ではない。暗さを指摘するならば戦争だ。江戸時代まで、庶民は戦争に行かなかった。ところが明治になってからは国民皆兵となり、成人男子は誰もが徴兵されるようになった。ちなみに日露戦争開戦時における日本陸軍に属していた人間の数は約90万人。海軍は4万1000人(防衛研究所調べ)である。当時の人口は約4600万人だから、相当な数の人々が戦場に駆り出され、戦死したり、あるいは戦傷を負った。『坂の上の雲』にはそうした明治という時代が持つ両面が書いてある。

安藤忠雄氏設計の司馬遼太郎記念館。外部の建築のみならず、内部の大書架は圧巻。司馬作品を楽しむことができる(右)。館長の上村洋行氏。落ち着いた語り口で展開される話からは、司馬遼太郎氏と作品に対する深い愛情が伝わってくる(左)。
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安藤忠雄氏設計の司馬遼太郎記念館。外部の建築のみならず、内部の大書架は圧巻。司馬作品を楽しむことができる(右)。館長の上村洋行氏。落ち着いた語り口で展開される話からは、司馬遼太郎氏と作品に対する深い愛情が伝わってくる(左)。


 くりかえし書くが、『坂の上の雲』は「日本勝った、ロシア負けた」を強調した作品ではない。それどころか作者はナショナリズムの高揚を迷惑だと感じている。

「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手で揺さぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している(昭和初年から太平洋戦争の敗北を考えればいい)」(『この国のかたち』文春文庫)『坂の上の雲』の舞台を旅して感銘を受けたのは土地の風景よりも出会った人々だった。松山でも江田島でも東大阪でも、私が出会った人々は司馬遼太郎が作品に書いた明治の日本人とそれほど変わってはいなかった。

展示された資料を熱心に眺め、俳句を投句し、気持ち良さそうに甲板で体操をし、大砲の主砲を眺めても、それに傾斜しているまなざしではなかった。真面目で、郷土を愛して、無邪気で、しかも成熟していた。司馬遼太郎が好きだったのも、日本の国土そのものより、そうした多彩なキャラクターを持つ日本人だったと思う。