「毀誉褒貶(きよほうへん)」――江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)にいちばん似合う四文字熟語だ。

「大政奉還」後の鳥羽・伏見の戦いで部下たちを見捨てて、さっさと江戸に逃げ帰ったことで慶喜の評判は地に落ちた。――「毀貶」の部分だ。

だが、初代家康、3代家光、8代吉宗に劣らぬほど英邁(えいまい)な人物だったことは、14代将軍位を慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))と争っていたころから認められていたし、維新後になって、「大政奉還」は日本の将来のための英断だったとされる。――「誉褒」の部分だ。

英断だったとされる「大政奉還」も、じつは日本の将来のためではなく、あくまでも自分のためだった。「『大政奉還』しても自分は新政府に残れる」と慶喜は勝手に思い込んでいたのだ。

同族会社でクーデターが起き、「徳川一族で独占していた株をすべて社員の持ち株にしろ」と迫られた慶喜社長は、新体制になっても筆頭株主でいられると思い込み、鷹揚に「いいよ」と答えてしまったのが「大政奉還」だった。

この慶喜の「大政奉還」、とても信じられない思いで見ていたのが、13代将軍家定の正室だった天璋院(てんしょういん)(篤姫(あつひめ))、14代将軍家茂の正室だった静寛院宮(せいかんいんのみや)(和宮(かずのみや))だろう。ともに、実家が討幕の原動力となってしまった篤姫と和宮は、夫(将軍)が他界したことで、「将軍の未亡人」として余生を送らなければならなくなった。だからこそ幕府が倒れようとするなか、天璋院は島津家に、静寛院宮は甥明治天皇に、それぞれ徳川家の存続と15代将軍慶喜の助命を嘆願したのだ。

だが、ほんとうは天璋院も静寛院宮も慶喜のことが嫌いだった。

慶喜本人がどうなろうと知ったことではないと思いながらも、「徳川家のため」に助命嘆願したのだ。江戸城に住まない慶喜を冷視し、正室美賀夫人が大奥の一角に住むのも反対した。

慶喜嫌いになった直接の原因は慶喜が断行した大奥経費削減策だったとされる。ほんのわずかな時期、慶喜が江戸城に「泊まった」ときには、「万事倹約しておりますから」という理由で布団を出さなかったという。慶喜は文句も言えず、毛布にくるまって寝るハメになった。