公文書改竄を「問題ない」とすると、全ての歴史観が崩壊する

現在、政府は南京大虐殺および従軍慰安婦について、その存在を認めてはいるが南京については「犠牲者数については議論がある」、従軍慰安婦については「軍が直接関与した狭義の強制性はなかったが、広義の強制性はあった」とする見解を採っている。

なぜこのような見解を採っているのかと言えば、「南京の民間人を虐殺せよ」とか「従軍慰安婦を強制的に連行せよ」という公文書が存在していないからである。

しかし公文書改竄を「問題ない」と認めてしまうと、政府の公式な歴史見解も揺らぐという事になる。本当は南京虐殺の公文書も慰安婦強制連行の公文書もあったかもしれない、という解釈が成り立つ。決裁後の公文書をあとから都合よく変えてしまうと、後世の歴史家は歴史研究の第一の手がかりを失い、資料研究は以後無意味という事になる。文章、記録の検証を中心に行われている史学は崩壊する。特に近現代をあつかう史学は崩壊する。

公文書の改竄に行政の責任が無いとなれば、全ての歴史観は崩壊してしまうのである。それほど公文書のあり方は重いのである。

10年前の上川の公文書に関わる提言は、全く色あせていない。政権は、上川を公文書問題の担当者にもう一度推挙するべきであろう。(文中敬称略)