名古屋テレビ時代はテキパキと仕事をこなして、しゃんと背筋を伸ばして歩いていたのに、あまりにも怒鳴られるので、萎縮して猫背になってしまった。一方で私のアイデアが監督に採用されたり、最終回だけはエンドロールにスタッフ全員の名前が出るので私の名前を見つけたり、とちょっとした進歩と喜びが出てきて。とても怒られてヘコんだり、「やるぞ!」と奮起したり、振れ幅が大きすぎる毎日でした。

そのうち脚本家の先生からファクスで送られてくる原稿をこっそり見て、次はどんな話になるんだろうとワクワクする楽しみを見つけました。たいていのADは監督を目指すことが多いので、上に上がるには、脚本を書けたほうがいい。そこで、一回きりのチャンスをいただいて書いたのが「美少女H」の第12話「十七歳の記録」です。

それからフリーランスのAP(アシスタントプロデューサー)の道へ。タイムキーパーさんに「こういう脚本の仕事があるよ」と紹介された脚本のリライトをやったり、プロットライターとして話のアイデアを出したり、大先輩の脚本家の先生との重要な番組の打ち合わせにも参加したり、といろんな経験を積みました。

演出や映画監督の仕事も。着実にステップアップ

「カバチタレ!」というドラマでは、1話でダメだったらすぐ降ろすとプレッシャーをかけられたので、「人には書けないものを書こう」と頑張り、全話書かせてもらいました。その後順調に脚本家としての仕事が増え、同時に演出や映画の監督もやらせていただけるようにもなりました。人とのつながりを大切にし、チャンスがあると聞けば飛びつき、“わらしべ長者”のようにステップアップできたように思います。ADのような過酷な仕事も、今の自分の血肉になっていますから、経験は何ひとつ無駄になっていません。

高校時代の文化祭でミュージカルの脚本と演出をしたのが原点。「将来、こういう仕事をやりたいなあ」と同級生につぶやいていたそう。だから、夢はかないました。

脚本家は年齢、性別、経験問わずトライできる仕事ですが、下手でもいいから最後まで書き通す力がある人が向いていると思います。でも、どんな仕事であろうと、ゴールまでやり続ける力は絶対に必要ではないでしょうか。

▼HISTORY
1992年 20歳
名古屋テレビ放送・東京支社業務部に入社。総務、経理、人事などを担当
1995年 23歳
次第に番組制作に憧れ、アフター5にマスコミのディレクター講座に参加。担当講師にテレビの制作現場に関わりたいと直訴
1996年 24歳
名古屋テレビ放送を退職。フジテレビジョン第一制作部の契約ADとなり、激務に追われる。ディレクター、監督志望だったが、脚本の面白さに目覚める
1998年 26歳
「美少女H・十七歳の記録」(フジテレビ系)で脚本家デビュー
2005年 33歳
「不機嫌なジーン」(フジテレビ系)の脚本で史上最年少で向田邦子賞を受賞
2011年 39歳
結婚、出産。東日本大震災以降、脚本で描くテーマに変化が出る
2016年 44歳
連続テレビ小説「あさが来た」(NHK)の脚本が、橋田賞を受賞