3回目の丸の内再開発はバブル崩壊が契機

そして3回目の丸の内再開発はバブル崩壊が大きな契機となった。

東京商工会議所の大会議室。

「これまで丸の内エリアはほとんど空室がなかった。ところが新規の開発がなされないままバブルが崩壊し、ちょうど新ビルの供給が相次いだ品川や西新宿に多くの企業が移転してしまった。そして、1995年に阪神淡路大震災があり、東京でも地震リスクが考えられるようになった。旧丸ビルは1914年にできたので、このままでは危険だと建て替えの必要性が検討されるようになった。建て替えを発表したのが1995年。ちょうど丸の内界隈に空室があったこともあり、丸ビルの借主に移転してもらうことができたのも建て替えを進めていく大きなきっかけになりました。この再開発をきっかけに丸の内エリアの再開発がスタートすることとなりました。」(神林氏)

三菱地所は2002年竣工の丸の内ビルを皮切りに東京駅前の6棟ビルと丸の内仲通りの機能更新を図った。これが第1ステージで「仲通り路面区画店舗化」を皮切りに「丸ビル」「丸の内オアゾ」「東京ビル」「新丸ビル」「ザ・ペニンシュラ東京」等が開業している。

「最初、丸の内の再開発をはじめたときには、生まれ変わる丸の内を多くの方に知っていただけるよう目立つところでやろうということになったので東京駅の目の前、丸ビル、そしてその5年後に新丸ビル、その他に東京ビルなどが対象になりました。そのあとは再開発が大手町エリアに移っていきました。」(神林氏)

東京會舘の大宴会場。

そして、スタートしたのが再開発の「第2ステージ」だ。第2ステージは「丸の内パークビル」「丸の内永楽ビル」「大手町フィナンシャルシティ」「大手町パークビル」などの建て替えが行われている。

「昔は働くだけの街で、土日には人通りも少ない。休日出勤しても昼ご飯をたべるところがない。しかし、再開発が進んだ現状では、単に働くだけの街ではなくて、隣にはレストランがあり、スポーツジム、美術館もある。世界でもっとも交流が盛んな街にしようと戦略を掲げ、建て替えを進めてきました」(神林氏)

再開発の構想は10年前から始まった

丸の内二重橋ビルの再開発がスタートしたのはもう10年以上前にもなるという。

「計画段階でいうと、再開発の構想は10年ぐらい前からありました。東京商工会議所・東京會舘との共同事業になりますので、最初は建物にどんな機能を持たせるのか、それぞれの地権者がどの区画を所有するかなどの整理から始まりました。開発手法に関しても、丸の内エリアの指定容積率1300%のまま進めるのか、特区を利用して割増容積を獲得するのか。特区を採用するとなると、都市再生に資する貢献が求められますので、ビルの内外でどういった機能が必要なのか検討を進めました。そうした検討を並行して、皇居外苑に面する希少性を最大限に発揮できるオフィスエリアの商品設計を行いました」(神林氏)

建物の指定容積率が1300%、計画容積率は特区を活用して1500%と200%アップした。高さは150メートル、敷地は約9900平方メートル。延床面積では17万4000平方メートルだ。