GMSが衰退し始めたのは、1998年(平成10年)頃からだ。ドラックストアの隆盛に加え、トイザらス、ユニクロ、ニトリ、ヤマダ電機、さらに100円均一ショップのダイソーなど「カテゴリーキラー」の小売業が台頭したことで、品ぞろえも価格の優位性でも見劣りするようになった。顧客からは「なんでもあるのに欲しいものはない」と言われ、地盤沈下が始まった。さらにその後、インターネット通販が定着したことで、若者を中心にGMS離れはますます顕著になっている。

起死回生の策として、GMSは00年代から本格的にプライベートブランド(PB)商品に活路を求めた。イオンの「トップバリュ」などがこれにあたる。だが、しばらくするとコンビニ各社もPB開発に本腰を入れ始め、同じようなメーカーや工場が商品製造を手がけるようになったため、GMSにとって差別化の図れる商材だった期間はごく短かった。

それでも、その後もPB商品はGMSに置かれ続け、デフレ基調が長年続いたこともあり、売上構成は伸長した。結果、メーカーが製造するナショナルブランド(NB)商品の売り場は減っていく。これは売り場のワクワク感を失わせる原因になった。

ダイエーの転落=GMS衰退の軌跡

2004年当時のダイエー横浜店(写真=AFP/時事通信フォト)

日本におけるGMSのお手本となったのはダイエーだ。ダイエーは平成の30年間で転落の一途をたどってきた。この転落の歴史は、GMSの衰退とあわせ鏡になっている。

創業者にして、日本にチェーン小売業を根付かせた“流通のカリスマ”中内功(※「功」は正式には工+刀)が率いたダイエーのピークは80年代だ。PBの先駆けだった「セービング」を80年に立ち上げ、庶民の味方として支持された。82年にはハワイ・ワイキキの「アラモアナ・ショッピングセンター」を買収し、88年に南海ホークスを買収して福岡ダイエーホークスをつくり、プロ野球業界に参入した。福岡ドーム建設にも着手し、平成元年(1989年)のダイエーはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったのだ。

だがその天下は長くは続かなかった。徐々に業績が悪化していき、1995年に創業の地・神戸を襲った阪神・淡路大震災がダメ押しとなって、転落の一途をたどり始める。98年には、上場以来初の経常赤字となった。そして2007年に産業再生機構の支援のもと、丸紅およびイオンと資本・業務提携をし、15年にはイオンの完全子会社となった。平成が終わろうとする今年、ダイエーの看板のついた店舗はほぼなくなり、目にできる機会も残りわずかとなりそうだ。