やがて、経営者から、再編や統合の相談がくるようになる。安心して、話ができるようになったのだろう。営業地域や顧客の重複も考慮するため、支社の営業部門の意見も聞く。一方で、工場長が辞めて困っているから、人を出してほしいと言われ、東海地方の支社から送ってもらったこともある。

道理を示すとともに、親身にもなる。そんな具合で2年余り、生コン会社の経営統合やセメント販売会社の合併など、いくつも成果が出た。当然、秩父小野田の社内融合にも、貢献する。

「賢者順理而安行」(賢者は理に順いて安んじて行う)――賢人は何事も道理に従い、しかも相手を安心させて行動するとの意味で、中国の朱子らの選書『近思録』にある言葉だ。合併相手とも、セメントの販売会社や生コン会社の経営者らとも、常に「何が理に適うか」を話し合い、相手が安心して同調してくれるようにする福田流は、この教えに通じる。

経営統合や再編が進み、さらに結果を出そうと思っていたら、また突然、異動になる。しかも、行き先は前にいた本社経理部で、副部長兼務の肩書こそ付くが、再び経理課長。納得しきれないまま、97年8月に本社へ戻ると、ほどなく社長に呼ばれた。日本セメントとの合併構想を告げられ、合併比率の案をつくるように、指示される。秩父小野田の合併時の経緯と瓜2つ。異動に秘められていた意味を、知った。

日本セメントは、互いにライバル意識をむき出しにして、戦ってきた相手。それでも、両社のトップは「このままでは、どちらも、いずれ行き詰まる」と判断し、手を握った。国内の年間セメント販売量は、バブル期の90年度の8600万トンをピークに、落ち続けていた。「理に適う」と頷く。

翌年10月に合併し、太平洋セメントが誕生。新会社でも、経理部の副部長だ。46歳、次の宿題は、6300人に膨れた人員のスリム化。デフレ経済が続いて業績が伸びないなか、採用が抑制され、希望退職が募集された。経理部は、保有株式や社有地を売って、割増退職金の原資をつくる。いわば「リストラの後衛」を務めた。