マクルーハンは、イギリスの哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドに関して述べた章に、「現在起きていることを注視する意思がある以上、不可避ということは絶対にない」という見出しを付けている。

ケヴィン・ケリーの著書の原題は『不可避(The Inevitable)』だ。ケリーはこの本の前に『テクニウム』(2010年、邦訳は2014年にみすず書房から)で、テクノロジーは人間の恣意的で人工的なものにとどまらず、もともと宇宙に秩序をもたらすもっと広い原理(テクニウム)が発現したものだと考え、マクルーハンがテクノロジーをあくまでも人間の意志の拡張であるとした考え方をさらに広い文脈で捉えた。そういう意味で、マクルーハンを(情報)宇宙の力学を探ったニュートンにたとえるなら、ケリーはニュートン力学の限界を打ち破ろうとしたアインシュタインのような存在だろう。

ケリーが考えたのは、テクニウムという避けがたい原理に支配されたインターネットというメディアは不可避で、それをどういう言葉で理解すればいいのかということだった。こうした不可避な未来に対して、マクルーハンはその原理を理解することこそが、より大きな力に対抗し、自らの判断で支配されない自由を確保するための唯一の方法だと考えたが、ケリーも彼のメディア論に同じ思いを込めたのだろう。

さらにケリーは『テクニウム』の中で、宇宙は当初エネルギーが支配していたが、その後に物質が生成されて支配的な存在になり、さらに物質に一定の情報的な秩序ができることで生命が誕生することで、情報の支配力が増していると考える。

メディアを理解する=人間を理解する

エネルギーと物質の関係性は、すでにアインシュタインによって定式化(E=MC2)されているが、物質と情報の関係性はまだだ。最近の最先端の宇宙論では、宇宙の現象はある抽象的な情報的空間が投射されたものであると考える、超ひも理論や、ホログラフィック理論も提唱されており、いずれは物質と情報の関係性を素粒子論なども含めて定式化することが可能になるかもしれない。そうなればメディアをさらに広い文脈の中で理解できるようになるだろう。

服部桂『マクルーハンはメッセージ メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?』(イースト・プレス)

マクルーハンのメディア理論を読み返してみると、それは人間の感性を基本に、人間が自ら生み出したメディアというテクノロジーとどう付き合えばいいかという、極めて人間存在と深く関わる命題を相手にしていることが分かる。メディアについて理解するということは、逆にそこに映し出された人間を理解することでもある。19世紀の電子メディアである電信や電話が時空を歪ませた結果、人々は混乱し、神の代わりに亡霊を見た。しかしその亡霊は、フロイトが人間の深層心理を発見し精神医学が立ち上がるきっかけともなった。

21世紀のインターネットやAIが見ている世界は、シンギュラリティーというマシンが人間を超えたポスト・ヒューマンな世界なのかもしれないが、それはそこに映っている人間という存在のイメージに対する反語でしかないだろう。きっとこうしたメディアを通して論じるべきは、メディアそのものの性質もさることながら、人類がずっと歴史を通して問い続けてきた、「人間とは何か?」という根源的な問いかけへの答えかもしれない。

服部桂(はっとり・かつら)
ジャーナリスト
1951年、東京都出身。早稲田大学理工学部で修士取得後、1978年に朝日新聞に入社。16年に朝日新聞社を定年退職後フリーに。著書に『メディアの予言者 マクルーハン再発見』(広済堂ライブラリー)ほか。訳書に『テクニウム テクノロジーはどこへ向かうのか?』(みすず書房)などがある。
(写真=iStock.com)
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