「本当はAIを作っている」

2002年にグーグルの社内パーティーに参加したケヴィン・ケリーが、創業者のラリー・ペイジに、「検索サービスの会社は山ほどあるのに、なぜいまさら無料のウェブ検索サービスを始めるのか」と尋ねたところ、ペイジは「本当はAIを作っている」と答えたという。グーグルが創業当時から情報検索を武器に目指していたものは、AIという言葉で象徴されるマクルーハンが指摘するような人間の意識を電子メディアに移植し、その意識を加工する何かだったのだ。

現在のAIは人間の知的な活動を模倣して、人間より早くうまい解答を引きだす気の利いたソフトにすぎないが、世界中の人々がつながり、検索やソーシャルメディアを使ってさまざまなアイデアを流して、グーグルなどのクラウドに強化学習のためのビッグデータを提供しているというのが現状だ。

インターネットが自然をも支配する

こうして得られるAIの機能は、個別の問題の解決に役にも立つが、人類の意識全体をデータ化して構造化した巨大な意識の集合体でもある。さらにIoTなどを通して、これから人間以外の万物がつながるようになると、インターネット全体が自然をも支配する第2の環境になっていくだろう。

まさにマクルーハンが、「詩人ステファヌ・マラルメは、世界は一冊の本の中につきると考えた。われわれはいまやこれを超え、すべての現象を1台のコンピューターの記憶の中に移しかえようとしている」のであり、人類の「生き残りはいま、環境としての意識の拡張にかかっている」のだという言葉が、インターネットが普及した先に来る世界を暗示しているようにも思える。

マクルーハンはそういう時代には、人々はそれまでの機械時代とは逆に「あらゆる能力が同時に活用されることが要請されるので、あらゆる時代の芸術家たちのように、もっとも強く対象に関与している時に、もっともレジャーを享受するということになる」と述べ、さらに「消費者はオートメーション回路の中で生産者となる」とし、「これはモザイク的新聞を読む人が、自分自身のニュースを作り出しているのであり、あるいは自分自身がニュースになっているのと同じである」と続ける。

ある意味それは、われわれが活字時代に放棄した部族社会時代の持っていた、専門家が生じる以前の何でも自分でこなすアーチスティックな感性が試される時代がやって来るということだろう。それは『メディア論』の中で引用された、バリ島の住人が述べた、「われわれは芸術なんてもたない。なんでもできるかぎりやるだけだ」という世界そのものだ。