もちろん、電話番号を公表せず利用を制限することも可能だろうが、一旦外部とつながった宮殿はもう神聖な場所ではなくなってしまう。知らしめず寄らしめず、という権威の基盤にある情報の非対称な構造が、気軽にアクセスが可能な電話によって均等化され、一気にオーラを消失してしまう危険性を、皇帝は敏感に感じ取ったのだろう。

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貴族社会に限らず、これまでの組織や体制は多かれ少なかれ、人的な階層構造が空間的な距離によっても保証されてきた。電話はこうした距離感を無視して一気に社会的空間構造を破壊し、電話番号という無機質な数字で、庶民も王室も何の区別もなく同じレベルで結んでしまう(英国の王室は開かれているものの、「エリザベス女王は携帯電話を持っているか」という質問に、スポークスマンは当然のように回答を拒否している)。

結局エリザベス女王の反応は、具体的な弊害を予防するという実利面の体裁を取ってはいるものの、王室という存在の持つ時代への不快感の表明であるとも考えられる。

(※エリザベス女王はその後、2001年に次男のアンドルー王子より携帯電話をプレゼントされ、現在も携帯電話を使っていると報じられている)

電話は目上の人が目下の人にかけるものだった

しかし、そうした感情は王室に特有なことではない。電話を個人生活に対する無遠慮な侵入とみなし、利用を生理的に拒否した作家や文化人も多く知られているが、宮殿で起きていた旧体制と電話の間で生じたギャップは、現在では家庭でも起きている。

日本では最初、電話はまず会社などで用いられたが、目上の人が目下の人にかけるものとされた。つまり新しいメディアの利用法は、それまでの社会組織のコミュニケーションと同じパターンを踏襲することになった。

その後、電話が家庭に入ってくると、まずは客人が出入りする玄関に置かれ、客人の訪問と同じやり方で扱われた。電話がかかってくると、まずは家長などによって相手の関係や社会的地位がチェックされ、しかるべき後に呼び出された当人につながれた。少なくとも子どもの電話による外部との接触は、両親の監視の下で行われてきた。

家族関係や家長の権威は、メディアをどうコントロールするかという利用法に反映されてきた。ところが携帯電話の出現は、こうした家族の人間関係のフィルターを無視したがごとくに、家族の各人を直接外部とつなげてしまった。もはや両親が子どもの情報行動を把握することはほとんど不可能になり、家族のコミュニケーションのルールの変化が、家庭のあり方自体にも影響を及ぼしつつある。