議論できないことは議論しない

あなたにランディーという名の叔父さんがいたとしよう。その叔父が30回目の結婚記念日に叔母と離婚して、旅先で出会ったサーフィンのインストラクターと再婚することを決めたとする。ここで俎上(そじょう)にのぼる論点はふたつ。ひとつは道徳的な問題、もうひとつは現実的な問題だ。

写真=iStock.com/Juanmonino

私たちの定義では、道徳的な問題は議論することができない。叔父は間違っているかもしれないし、正しいかもしれない。叔父に、叔母という素敵な女性の心を傷つけていると言うことはできるかもしれないが、それでは、議論ではなく説教になってしまう。感謝祭(サンクスギビング)の日のディナーには招待しないぞ、と脅すこともできるかもしれないが、それは威圧であって議論ではない。

この叔父のケースで議論可能なのは、若い女性のために叔母を捨てることが、どのような結果を招きそうかということである。

あなた:1年もしないうちに、彼女に見捨てられるのがオチよ。そうなったら、残りの人生、寂しくみじめなものになると思うわ。
叔父:彼女は僕を見捨てたりしないさ。それに若い女性といると、こちらまで若返ったような気持ちになるんだ。つまり長生きできるってわけさ。

どちらの予想があたるだろうか? それは誰にもわからない。ランディー叔父さんには、再婚するにあたって、あなたを説得できるだけの現実的な理由があるかもしれない。叔父さんが「自分は道徳的に正しい」とあなたを納得させることはあるだろうか? それは、ないだろう。

ここで、議論のルール第1条。議論できないものについては、議論しないこと。それより、あなたの目的に焦点を絞るほうが得策だ。

私たちは、何かを求めて議論する。問題を解決したい、全員が同意して終わるようにしたいと思っているはずだ。「誰が正しくて誰が間違っているのか」「何が良くて何が悪いのか」という観点から脱却できなければ、それを達成するのは難しい。

なぜ多くの議論が、非難の応酬や個人の糾弾に終始してしまうのだろう? それは、たいてい間違った時制が使われているからだ。馬鹿げて聞こえるかもしれないが、「目的にあった時制を使う」というのは、非常に大切だ。

もし会議で過去形や現在形で行われていたら、未来形に変えてやるといい。たとえば「みなさん、とてもいい点を指摘されていますね。ですが、これからどうしていきましょうか」といったふうに。決断を要する議論では、未来のことに話を向けよう。

ジェイ・ハインリックス
ミドルベリー大学教授
執筆者、編集者、会社役員、コンサルタントとして30年以上にわたり出版業界に携わってきた。本書の第1版が刊行されてからは、講師として世界中を飛び回り、「伝える技術」を教えている。現在はミドルベリー大学教授としてレトリックと演説の授業を担当。NASA、米国国防省、ウォルマート、サウスウエスト航空などでコンサルティングや講演もおこなっている。
(翻訳=多賀谷正子 写真=iStock.com)
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