とはいえ、集団主義には良い面もたくさんあります。そのおかげで、日本の子どもたちはみな礼儀正しく、他者と協調できる。それらを生かしたうえで、自分の考えを相手に伝える力を身につけさせることは可能なはずです。

たとえば、高校受験の評価手段として、試験の点数だけではなく、プレゼンテーションの能力も加味してはどうでしょうか。学んだことを先生や友人に向けて発表する時間を中学校の授業のなかで設け、その能力に成績をつける。そうすれば生徒も先生も真剣に取り組むでしょうし、その中で生徒には自信がついていくことでしょう。その際には、お互いを笑ったりするのではなく、尊重しあうことが大切です。

なぜ「ゆとり教育」を導入したのか

かつて実施された「ゆとり教育」も、子どもたちに自信をつけさせるという意味では有効な教育政策でした。

ルーシー・クレハン『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?』(早川書房)

ご存じのとおり、日本の小・中学校では1990年代の後半から2000年代の前半にかけてカリキュラムの3分の1を減らしました。土曜日を段階的に休日にしていき、子どもたちに自分の興味を追求させるための「総合的な学習の時間」を設けたのです。

だいたいにおいて規範を細かく定める文部科学省にしてはきわめて異例のことですが、総合的な学習の時間にどのような活動を行うのかは、主に各学校に任せられました。これは教師たちが構造化された「問題解決手法」を授業に取り入れるよりも、さらに先進的な取り組みでした。どんな問題を解決するか、どんな疑問に取り組むかを、子どもたち自身が決めるのですから。

日本の生徒が世界一になる可能性を潰した

ところが、2003年に実施したPISAの結果が2004年に発表され、日本の読解力の得点が下がったとわかるや、その原因としてゆとり教育が槍玉に挙げられました。批判に応えて、日本政府は次第に数学や国語の時間を増やすようになり、2011年、ゆとり教育のほとんどは廃止されました。教科書は分厚くなり、「総合的な学習」に使われた時間の多くはほかの科目に取って代わられ、縮小されました。

PISAの成績の下落というほんのささいなつまずきで、日本の政府はうろたえ、「受験地獄」の軽減と、見たことのない問題の解決において日本の生徒たちが世界一になる可能性の、両方に効果的であったはずの改革を廃止してしまったのです。