午前中の段階では、「呼名にてわずかに返答」「おはようと言う」などと記されているが、午後1時以降は、「呼名反応なし」と、容態の変化が窺われる。1時半を過ぎた頃から、「開眼しているも捷毛反射なし」「四肢冷感強い」「HR(著者注:心拍数)130代」で、「シリンジ(著者注:モルヒネ)3・5」と、いよいよ死に向かう人間の様子がメモに記されている。

午後2時には「シリンジ4・5」に増加、2時半には、「山中医師の指示」によって、抗痙攣剤「フェノバール」を1アンプル投与。2時50分には、「HR DOWN」、「R(呼吸)停止」、「永眠される」と書かれ、カルテの記録はここで終わっている。

このカルテを観察する限り、事件に繋がる痕跡は見当たらない。患者は、まるで自然死を迎えたかのようだ。無論、私はこの段階で、記入されている薬品名すべてを把握しているわけではない。この後の話から、カルテには、死を直接的に誘発した筋弛緩剤「レラキシン」の文字が書き込まれていない事実を知る。このことが当時、様々な憶測を招いた。

三人称から二人称の死へ

地元土建会社で、ミキサー車の運転手をしていた多田は、臨終間際、凄まじい痙攣を起こした。その時、病室では、看護師たちに加え、多田の妻、娘二人、親戚が見守っていた。家族が泣き叫ぶ中、モルヒネを増量しても、痙攣を妨ぐことはできなかったという。そこで、山中が意を固め、看護師に指示を出した。

取材時の京北町の様子

「レラキシンを持ってきて」

看護師は、院長の指示に疑問を募らせ、筋弛緩剤の投与を拒んだ。最終的に院長自ら点滴を打ったと報じられている。

1カ月後、内部告発という形で、事件が表沙汰になる。さらに、3カ月後には、筋弛緩剤の投与を拒んだ看護師を含む、京北病院に勤務していた30人の職員が「院長が復帰するなら、全員退職する」という主旨の要望書を、病院を管轄する京北町役場に提出した。

『週刊文春』(96年9月12日号)の取材に応じた当時の看護師長は、詰め所にいた右の看護師から筋弛緩剤のことを耳にしたという。看護師長の発言はこうだ。

<「エー、何でそんなもの使うんやろ」という疑問で頭が真っ白になりました。「レラキシンなんか打ったらすぐに呼吸が止まるのに、人工呼吸の準備もしてへん」とか、「山中院長を止めないといけない」という思いがよぎりましたが、頭がスムーズに回転せず、ただ呆然としていました>

また、看護師長は、レラキシンの使用とカルテとの関係について、次のように述べている。

<山中院長はあの時、レラキシンを使ったことを自分でカルテにも書かず、「看護記録にも書くな」と指示しました。安楽死を問うのであれば、堂々と記録すればいい。なぜ、記録できないようなことを私たち看護婦に指示したのかと思うと、不信感ばかりが残りました>

この報道の信憑性を問うために、私は、山中に「なぜカルテに筋弛緩剤を記入しなかったのか」と尋ねてみた。すると、マスコミは看護師の肩を持ったという考えを示した上で、机に置かれた『看護記録2』を指差した。

「僕は言ったんだけれど、彼女たちが書いてないだけです。だけど、彼女たちが書こうと思ったら、いくらでも書けた。みんなが知っていますから。詰め所ではっきり言ったんだ。内緒にしてくれとか言うのは一つもない」

不起訴になった背景

ではなぜ、そのタイミングで投与したのか。筋弛緩剤は、用途次第で、患者を死に至らせることは、医師ならばみな知っているはずだ。投与しなければ、どうなっていたのか。この私の問いかけに対し、山中は、答えた。

「その辺が曖昧なんですよ。曖昧だから、限りなく安楽死に近い病死という形になると思います」

検察が不起訴とした背景には、筋弛緩剤が実際に死に繋がったのか否かを調べた、京都大学の鑑定書がある。鑑定では、投与した致死薬が、多田の息の根を止めたのかは断定できなかった。山中も、当時、覚悟を決めた態度で、検察に挑んでいたことを主張した。

「死が、司法の世界では点であって、その点が(法の枠組みの中で)許されないのであれば、起訴してくださって結構ですと言ったところ、検事さんが鑑定では因果関係が分からないと言ってたんです。そこで検事さんは、起訴すべきでない事例と捉えたんだと思います。我々は、生物学的死であっても、こういう患者さんの場合は、もう線で考えるんです」

この「点」と「線」については、後述する。改めて、山中に、一体どのような思いで、筋弛緩剤の投与を決断したのかを聞いた。その瞬時の思いに、私はむしろ関心を抱いた。

「あの時、なぜ筋弛緩剤がひらめいたかというと、いかに早く患者を穏やかな表情にしてあげられるか、ということに尽きます。死は寸前にある。だけど、1秒でも2秒でも、死を早められるなら(そうしたい)……。それが安楽死になり得るという思いはありました」

山中は、淡々と語っていた。