さらに今年1月には、鹿児島県枕崎市で、西郷を描いたものだという新たな肖像画も見つかった。この肖像画に署名はなく、いつ、誰の手によって描かれたのかは不明だが、西郷ゆかりの縁者の印象では、祖先から伝え聞いた西郷の特徴が見て取れるというから驚く。

西郷隆盛の「本当の顔」をめぐる謎は、まさに現在進行形なのである。

西郷を死に追いやったのは誰? 西南戦争終焉の真相

西郷と共に西南戦争を指揮した人物に、桐野利秋という人物がいる。私学校において桐野はもっとも過激な人物だったことから、のちに「西南戦争は桐野の戦争」ともいわれたが、「人斬り半次郎」の異名も持つ彼の面目躍如といったところだろうか。だが、西南戦争における桐野には、まさに不運しかもたらされなかった。

雑学総研・著『誰も書かなかった 日本史「その後」の謎大全』(KADOKAWA)

そもそもこの戦争のきっかけは、私学校の生徒が陸軍の火薬庫を襲撃したことにあったようだが、このとき西郷は「しまった!」と叫び、桐野も「早まった!」と口走ったと伝わる。つまり、西南戦争は「暴発」して開始されたようなものともいえるのだ。

西南戦争最大の激戦となった田原坂の戦い(1877年2月)を経て、西郷軍の総指揮者となった桐野は、同年9月、鹿児島へ入って城山に拠(よ)ったが、同月24日、新政府軍による総攻撃がはじまる。身を隠していた洞窟から出た西郷は被弾し、別府晋介の介錯により死亡した。この直前、西郷だけでも投降させてはという意見も内部から出たものの、桐野は決してそれを認めず、「潔く散華されてこそ西郷先生」と言ってはばからなったという。

師である西郷が没したあとも、自ら銃を構えて新政府軍に戦いを挑んだ桐野だったが、最後は眉間を撃ち抜かれて戦死(享年40)。西南戦争は西郷がはじめた戦争といわれるが、こうみると、実は桐野の「思惑」も作用していたことが読み取れるのである。

ロシア皇太子と共に帰国!? 根強く残った生存説

1877年9月24日午前7時。西郷隆盛がついにこの世を去ろうとしていた。彼の最期について、田中万逸『大西郷終焉悲史』にはこのようにある。

「大西郷は、依然従容自若として、『晋殿、晋殿』と別府を差し招き、『晋殿、殺ッ呉いやい。もうこの辺で可かろ!』と首さし延べて凛りんとして言った」