マインドフルネスや禅を極めると成長意欲がなくなる?

――仏道に入った松山さんと、マインドフルネストレーナーの資格を持つ島田さん。お二人はマインドフルネスについてどうお考えですか?

妙心寺退蔵院副住職 松山大耕さん

【松山】仏教の教えである八正道(はっしょうどう)〈仏教において涅槃(ねはん)に至るための8つの実践徳目。正見(しょうけん)、正思惟(しょうしゆい)、正語、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう)〉の「正念」ですね。正念の心が禅ですから、マインドフルネスは本来、仏教由来のものだと思います。しかし、いまのマインドフルネスはややテクニック・ハウツー的に用いられて、もったいないと思います。

【島田】とても共感します。本質つまり、それが何のためのものなのかを見極めなければならないですよね。

【松山】以前、藤田一照(曹洞宗の僧侶)さんと対談をしたときにも話題になりましたが、食事にたとえるなら、玄米食が良いからと玄米ばかり食べていたら健康になるのかというと、そうではない。ほかの野菜やおかずもあって初めて、玄米が体に良いものとなる。これと同じで、八正道から「正念」だけ取り出して、これさえやっていればよいというのはどうかと思うのです。もちろんきっかけとしては良いと思いますが。

――マインドフルネスや禅を極めると、心が落ち着きすぎて成長意欲がなくなるという声もあります。

【松山】こう考えてみてください。たとえば、職人さんが良いモノをつくりたいと思うのは、はたして悪いことでしょうか。もちろん自分自身のためという側面もありますが、世のため人のために良いモノをつくりたいという向上心ゆえです。一方、これをつくることで成功したいとか、評価されたいとか、それは明らかに私利私欲の気持ちです。マインドフルネスは決して、私利私欲のためのものではなく、より自然に世のため人のために尽くせるようになるのが本来の姿だと思うのです。

何のためにマインドフルネスをするのかという部分が抜けてしまうと、本末転倒です。最終的には世のため人のためというような、そういう想いや願いがあっての「正念」なのです。単に心を落ち着かせるとか、気持ちを集中させるということではない方向性、それが重要です。

マインドフルネスをすることによって何かを得ようと思っているうちは、目的や効果に心を奪われる生活と変わりません。もちろん集中力も仕事の効率も上がり、体調も良くなるかもしれない。けれどもそれはあくまでも「おまけ」です。